マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「議論のための議論」というのは

 ――議論のための議論

 というのは――
 結局のところは、
(娯楽なんだろうな)
 と思います。

 もちろん、それは、

 ――教育

 とはなりうるでしょう。

 教育も娯楽であると主張したいわけではありません。

 が――
 教育の中に娯楽の要素を取り入れるのは、特段、珍しいことではありませんから、

 ――議論のための議論は娯楽である。

 といっても構わないように思います。

 議論のための議論は心身ともに余力のある人にしか付き合えない――
 と、僕は感じます。

 では――
 議論とは、本来いかにあるべきか――

 それは、

 ――決断のためにあるべき。

 といってよいのではないでしょうか。

 非娯楽性の議論の全てが「議論のための議論」ではなく、「決断のための議論」であってほしいと思います。