マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

矮小で非力な“悪”を懲らしめたって

 いわゆる勧善懲悪の物語では、

 ――“悪”は十分に巨大で強力でなくてはならない。

 というのが鉄則とされます。
 そうでないと、物語の魅力が半減してしまう、と――

 それは、そうですよね。
“悪”が矮小で非力であっては、どんなに素晴らしい“善”でも、惹き立てようがない――

 つまり――
 勧善懲悪の物語で鍵を握っているのは、“善”ではなく、“悪”なのです。
 いかに魅力的な“悪”を造形するかで、その物語の運命が決まってしまう――

 実をいうと――
 30代前半くらいまでの僕は、勧善懲悪の物語が、好きではありませんでした。

 むしろ、積極的に嫌っていたくらいです。

 なぜか――

 世の勧善懲悪の物語の多くは、鉄則を実現し損ねてしまっていると感じられていたからです。

 “悪”は十分に巨大で強力でなければならないはずなのに――
 実際の物語の多くでは、“悪”は大して巨大でも強力でもない――むしろ、“善”のほうが巨大で強力であって、“悪”は矮小で非力であったりする――

 そんな“善”が、そんな“悪”を懲らしめたって――
 面白いわけはないのですね。

 が――
 それは――
 物語の受け手にまわるからこその話でして――

 作り手にまわるのであれば――
 話は違ってきます。

 30代後半になって、
(巨大で強力な“悪”を造形するのは、かなり困難で挑戦的で、それゆえに、案外、面白いんじゃないか)
 と感じ始めたのですね。

(ちょっと簡単にはいきそうにもないぞ)
 と――

 だからこそ――
 実際の勧善懲悪の物語の多くでは、“悪”は大して巨大でも強力でもなかったわけです。

 そして――
 もっと困難で挑戦的で、それゆえに面白そうなのは、

 ――巨大で強力な“悪”に立ち向かう“善”を造形すること

 です。

“悪”は巨大で強力なわけですから――
 当然ながら、“善”は、なかなか“悪”を懲らしめることができない――

 そればかりか、逆に、“悪”に散々に打ちのめされ続けることになる――
 そんな“善”は、当然ながら、どうしようもなく不甲斐ないのです。

 にもかかわらず――
 その“善”を魅力的に造形しなければならない――

 これは、かなり困難で挑戦的な課題ですよ。
 真剣に取り組んだら、かなり面白い――

 巨大で強力な“悪”に散々に打ちのめされ続ける“善”――
 そんな不甲斐ない“善”に、どうやって魅力をもたらすのか――
 知恵を相当に絞らないと、答えはみつかりません。