恋には再帰性があって――
どんなに恋の手練れになったとしても、この再帰性から完全に逃れることはできない――
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
恋の再帰性からは何人たりとも逃れることはできない――
ということは――
恋を楽しむということは――
この再帰性を楽しむことに他ならない――
といえるかもしれません。
すなわち――
あえて自分の心の中に架空の異性を思い描き――
その人となりとの空虚な交流を、空虚と自覚した上で、大いに楽しもうとするのが――
本当の意味での恋の楽しみ方ではないか――
という仮説です。
もし――
この仮説が正しいとすると――
恋は孤独です。
恋の手練れは――
孤独を楽しむ術を知っている――
ということになります。
こうした孤独感をもてあまし、それを癒そうとして――
人は――
愛にまで恋を高めるのかもしれません。
愛には、再帰性がありません。
愛にあるのは、
――放擲性
です。
ここでいう「放擲」とは、
――気前よく放り投げること
です。
すなわち、「放擲性」とは――
自分に何かが返ってくることをまったく期待しないこと――あらゆる見返りを期待しない――あとのことを考えず、注げる分だけ、どんどん注いでいく――
それが、
――愛の放擲性
です。
たとえ放擲であっても、その対象があるということは――
愛は、決して自己完結しえないことを意味します。
この性質が、孤独感を癒しうる愛の原理です。
恋には、放擲性がない――
結局は全てが自分自身に返ってくる――あっさり自己完結できてしまう――
それゆえに――
恋は孤独なのです。