というのが――
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
その前提は、
です。
この前提が崩れれば――
例えば、
――サディストが“客体の被虐”を意識しているときに、同時に“主体の加虐”も意識しえているか。
とか、
――マゾヒストが“客体の加虐”を意識しているときに、同時に“主体の被虐”も意識しえているか。
とかいった疑念を指摘できます。
この疑念を重くみれば、
となるのですね。
すると――
色気は、互いに独立した2つの変数による関数である――
ということになります。
すなわち――
サディストにとって、
色気 = 色気(客体の被虐,主体の加虐)
であり――
マゾヒストにとっては、
色気 = 色気(客体の加虐,主体の被虐)
であるのです。
よって――
――どうも、おかしい。
という話になりますね。
すなわち、
という話になるのです。
……
……
19世紀のヨーロッパで――
との考え方が根強くあるのですが――
そうした考え方を支持してきた人たちは――
意識的か無意識的かは別にして、
との懸念を抱いてきたのかもしれません。