マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

サディズム・マゾヒズムは性欲の異常心理か

 ――サディズムは加虐性欲であり、マゾヒズムは被虐性欲である。

 というのが――
 サディズムマゾヒズムの常識論である――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 その前提は、

 ――サディズムでは、“客体の被虐”は“主体の加虐”に起因し、マゾヒズムでは、“客体の加虐”は“主体の被虐”に起因している。

 です。

 この前提が崩れれば――
 サディズムマゾヒズムの常識論は潰(つい)えます。

 例えば、

 ――サディストが“客体の被虐”を意識しているときに、同時に“主体の加虐”も意識しえているか。

 とか、

 ――マゾヒストが“客体の加虐”を意識しているときに、同時に“主体の被虐”も意識しえているか。

 とかいった疑念を指摘できます。

 この疑念を重くみれば、

 ――必ずしも、サディズムで“客体の被虐”が“主体の加虐”に起因しているとはいえず、また、マゾヒズムで“客体の加虐”が“主体の被虐”に起因しているとはいえない。

 と考えるのが自然です。

 つまり、

 ――サディズムでは、“客体の被虐”と“主体の加虐”とは互いに独立であり、マゾヒズムでは、“客体の加虐”と“主体の被虐”とは互いに独立であるかもしれない。

 となるのですね。

 すると――
 色気は、互いに独立した2つの変数による関数である――
 ということになります。

 すなわち――
 サディストにとって、

  色気 = 色気(客体の被虐,主体の加虐)

 であり――
 マゾヒストにとっては、

  色気 = 色気(客体の加虐,主体の被虐)

 であるのです。

 よって――
 少なくとも、冒頭の常識論「サディズムは加虐性欲であり、マゾヒズムは被虐性欲である」は、

 ――どうも、おかしい。

 という話になりますね。

 すなわち、

 ――サディズムマゾヒズムの相違は、加虐・被虐の相違というよりは、むしろ、主体・客体の相違ではないか。

 という話になるのです。

 ……

 ……

 19世紀のヨーロッパで――
 サディズムマゾヒズムの考え方が提唱された頃から、

 ――サディズムマゾヒズムとは根源的には同じ心理である。

 との考え方が根強くあるのですが――

 そうした考え方を支持してきた人たちは――
 意識的か無意識的かは別にして、

 ――サディズムマゾヒズムは、性欲に関わる概念ではなく、主体・客体に関わる概念ではないか。

 との懸念を抱いてきたのかもしれません。