マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

武の要諦

 ――文武理工

 の4分割表、

        知  制
   人間  文  武
   自然  理  工

 を――
 きのうの『道草日記』で示しました。

 つまり、

  文 = 人間を知ること
  武 = 人間を制すこと
  理 = 自然を知ること
  工 = 自然を制すこと
 
 という考え方です。

 この4分割表は――
 縦軸が、

 ――人間が対象か、自然が対象か

 であり――
 横軸が、

 ――知る方法か、制す方法か

 である――
 ということにも触れました。

 ……

 ……

 ここで――
 1つ気になることが出てきます

 それは――
 暗黙のうちに、

  人間 ↔ 自然

  知る ↔ 制す

 の二項対立が前提となっている点です。

 つまり、

 ――「人間」の対極は、本当に「自然」なのか。

 ――「知る」の対極は、本当に「制す」なのか。

 との問題意識ですね。

 これら2つの問題意識のうち――
 1つめについては――

 実は――
 今年1月3日の『道草日記』で述べています。

 そこで――
 僕は、

  恣意 ↔ 自然

 の図式を示しました。

 ここでいう「恣意」とは、

 ――自分の意志が及ぶ事物

 の全てです。

 「自然」の対義語として――
 僕が提案した言葉です。

 ……

 ……

 恣意は――
 少なくとも常識的には――
 自我意識が発するものと考えられます。

 よって、

  恣意 ↔ 自然

 の図式を踏襲するならば――

 先ほどの4分割表は、

        知  制
   自我  文  武
   自然  理  工

 となるのです。

 つまり、

  文 = 自我を知ること
  武 = 自我を制すこと
  理 = 自然を知ること
  工 = 自然を制すこと
 
 ですね。

 ……

 ……

 このように考えていくと――

 よくわかることがあります。

 ――武

 の真髄です。

 しばしば、

 ――武術・武芸の最終目標は徹底的な自己制御にある。

 といわれます。

 武術や武芸は――
 素人からすると――
 敵を倒すためにあると思われがちですが――

 そうではないのです。

 自我をいかに律するか――
 それこそが、

 ――武の要諦

 なのですね。

 ……

 ……

 古来より、

 ――文武百官

 といいます。

 古今東西を問わず――
 国家の統治は、文官と武官とが手分けをして行うものとされてきました。

 そして――
 例えば――
 国家が戦争を発動するような際には――

 一般に――
 文官よりも武官のほうが抑制的になるといいます。

 武官は――
 どんな状況であっても――
 つねに自我を律する方向へ傾くからです。

 ――戦え!

 と誰かに囁(ささや)かれても、

 ――いや、ちょっと待て。

 と自分にいいきかせる――
 それが武官の教養なのです。

 そうした“武の要諦”が何に由来しているのか――

 先ほどの4分割法を眺めていると――
 よくわかります。