知
行
のような一対一の対応関係にあるのではなく、
知
行 行
行 行 行
行 行 行 行
行 行 行 行 行
のようなピラミッド型の一対多の対応関係にある――
ということ――
きのう、および3日前の『道草日記』で、述べました。
いいかえるならば、
――ひとつの“知”
は、
――さまざまな“行”
によって裏打ちをされて初めて意義が生じる――
ということです。
例えば、
――人の道を知っている。
ということは――
たんに、“人の道”に適った生き方がどのような生き方であるかを知っているというだけではなくて――
実際に、“人の道”に適った生き方をさまざまな局面で実践し、さまざまな形で成功したり、失敗したりした上で――
かつ、それらの体験をさまざまな人々に伝えることなどの――
多種多様な行為によって裏打ちをされています。
それら行為の実践が全て伴って初めて、
――人の道を知っている。
といえるのです。
……
……
ここで――
鍵となるのは、
――不均等
です。
知
行
のような一対一の対応関係を意識すると――
“知ること”と“行うこと”とが、あたかも均等であるかのように感じられますが――
実際には、
――不均等である。
ということです。
……
……
こう主張すると、
――では、“知ること”と“行うこと”と、どちらが重要なのか。
ということが――
次に大問題となるのかもしれません。
が――
それは、
――ピラミッドの頂点と底面とでは、どちらが重要か。
といった問題と――
本質的には同じでしょう。
深く吟味する意味はないと――
僕は思っています。
位置関係だけをみると、“頂点”が上に存在し、“底面”が下に存在していますから、一見、“頂点”のほうが重要のようにみえますが――
構造関係をみると、“底面”が存在しなければ、“頂点”は存在しえませんから、その観点では、“底面”のほうが重要に感じられます。
つまり――
“知ること”と“行うこと”と、どちらが重要かということは――
一概にはいえないのです。
強いていえば、
――“知ることと”と“行うことと”とは、不均等ながらも相補的である。
となります。