マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“知”を伴わない“行”は、どうなる?

 ――知行合一

 の考え方の基本は、

 ――“行”を伴わない“知”に意義はない。

 というものです。

 それを――
 おとといの『道草日記』では――
 以下のように述べました。

 “行”を伴う“知”、

       知
      行 行
     行 行 行
    行 行 行 行
   行 行 行 行 行

 と、“行”を伴わない“知”、

       知

 とを並べ、

       知
      行 行
     行 行 行
    行 行 行 行
   行 行 行 行 行       知

 として――
 これらを遠くから眺めたら――

 たぶん、

       知

 のほうは、よくみえず、

       知
      行 行
     行 行 行
    行 行 行 行
   行 行 行 行 行

 のほうしか、みえない――

 ……

 ……

 裏を返すと――

 近くで凝視すれば、

       知

 は、みえる――
 ということです。

 “行”を伴わない“知”であっても――
 “知”がないよりは、はるかにマシでしょう。

 つまり――
 おとといの『道草日記』で述べた通り、

       知

 と、

       ∅ (空集合

 とでは雲泥の差である――
 ということです。

 では――
 “知”を伴わない“行”は、どうでしょうか。

 つまり――
 “知”を伴う“行”、

       知
      行 行
     行 行 行
    行 行 行 行
   行 行 行 行 行

 と――
 “知”を伴わない“行”、

      行 行
     行 行 行
    行 行 行 行
   行 行 行 行 行

 とは、何が違うのか――

 ……

 ……

 僕は、

      行 行
     行 行 行
    行 行 行 行
   行 行 行 行 行

 は――
 すぐに崩れてしまうと考えています。

 例えば、

      行             行
   行 行 行行 行 行行 行 行 行  行行

 のように――

 当然です。

 例えば――
 “人の道”が何かを知らないのに、“人の道”に適う生き方だけをただ実践していたのでは――
 メチャクチャな生き方になるはずです。

 もちろん――
 部分的には、きっと“人の道”に適う生き方をするでしょうが――
 一方で、“人の道”に適わない生き方も同時にしてしまう――

 よって、

 ――なんじゃ、そりゃ?

 と周囲を呆れ果てさせるに違いありません。

 つまり、

       知
      行 行
     行 行 行
    行 行 行 行
   行 行 行 行 行

 と、

      行 行
     行 行 行
    行 行 行 行
   行 行 行 行 行

 とを並べ、

       知 
      行 行                行 行
     行 行 行              行 行 行
    行 行 行 行            行 行 行 行
   行 行 行 行 行          行 行 行 行 行

 とすると――
 たぶん、右側のピラミッドもどきは崩れてしまい、

       知
      行 行
     行 行 行
    行 行 行 行        行             行
   行 行 行 行 行    行 行 行行 行 行行 行 行 行  行行

 となって――

 やはり――
 遠くからみたら――
 左側のピラミッドしかみえないと思うのです。