――本質
という言葉を――
僕は、しばしば気軽に使っています。
例えば、
――元号の本質とは何か。
みたいに使っています。
20代の頃には――
すでに、
――本質
という言葉を――
よく使うようになっていたと思います。
が――
……
……
それから20年近く経ち――
40代も半ばになって――
最近では、
(「本質」というのは、実は虚構かもしれない)
と思うようになりました。
どういうことか――
……
……
例えば、
――元号の本質は、国家による時間支配である。
といったとします。
そうすると――
元号に関する様々な物事のうち、「国家による時間支配」以外の要素を、きれいに捨て去ることができてしまうのですね。
それは――
自分の主張を強調したり、自分の思考を進展させたりするときには、なかなかに便利なのですが――
でも――
実は――
自分が捨て去った要素のなかにこそ――
本質が隠れていたかもしれないのです。
「本質」という言葉ないし概念は――
その便利さゆえに――
かえって、
(危ない)
と感じられる時があります。
便利な物事は――
つねに疑ってかかったほうがよいのです。
……
……
――元号の本質は、国家による時間支配である。
と考える人たちが――
けっこう多くいるようです。
かくいう僕も、
(たぶん、そうだろう……)
と思っています。
思っていますが――
……
……
(本当にそうか?)
と疑うことも――
大切です。
少なくとも――
元号に関する物事は、“国家による時間支配”だけではありません。
社会や時代の雰囲気を、何となく皆で醸成し、受容し、共有していったり――
世代間の共通認識を繋ぎ止める膠のような役割を果たしたりしています。
もし――
元号に、何か豊潤な香りがあるとしたら――
それは――
“国家による時間支配”以外の要素から漂ってきているはずです。