マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

林則徐の認識は日本列島で広まった

 ――“アヘン問題への危機感”の本態は、“西欧の敵対性”に一早く気づいて備えることができなかったことの認識である。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この認識が、アヘン戦争に敗れた当の中国大陸では十分に広まらずに――

 その後の中国近現代史の災厄を招いたと考えられます。

 

 が――

 この認識が、どういうわけか十分に広まった地域が、東アジアにありました。

 

 日本列島です。

 

 アヘン戦争の際に、林(りん)則徐(そくじょ)が、特命全権大臣――欽差(きんさ)大臣――の地位を活かし、西欧列強に関する情報を集め――

 それを友人に伝え――

 その友人が書物にまとめ、“アヘン問題への危機感”を中国大陸に広く訴えたことは――

 おとといの『道草日記』で述べた通りです。

 

 この書物が――

 どういうわけか――

 日本列島で熱心に読まれたのですね。

 

 それは、なぜだったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん――

 理由は幾つか考えられます。

 

 当時の日本列島を支配下に収めていた中央政権――徳川幕府――が、鎖国を行った後も、西欧の情勢に注意を払い続けていたこと――

 また、日本列島における有力な地方政権――いわゆる雄藩――の幾つかが、西欧の情勢に関心をもっていたこと――

 また、アヘン戦争が終わって10年くらいが経った頃に、いわゆる黒船来航の騒ぎが起こり、日本列島の緊張感が一気に高まったこと――

 などが挙げられます。

 

 が――

 これら理由には、共通の背景があるように――

 僕には思えます。

 

 その背景とは、

 ――西欧の敵対性

 への気づきです。

 

 中国大陸の人々が、18世紀から19世紀にかけて、アヘンの売り込みという敵対的進出に曝されたように――

 日本列島の人々は、16世紀から17世紀にかけて、キリスト教の流布という敵対的進出に曝されました。

 

 その差は――

 11月24日の『道草日記』で述べたように――

 おそらくは五十歩百歩であったのですが――

 

 その差が――

 少なくとも19世紀中盤から20世紀序盤までの歴史に対しては――

 大きな違いをもたらしました。

 

 中国大陸では、これといった統一政権が現れず、動乱が続き、中国大陸は半ば植民地と化していたのに対し――

 日本列島では、強力な統一政権が現れ、西欧列強の模倣に徹し、一等国(当時の先進国)の末席に名を連ねるまでになっていました。

 

 その日本列島の統一政権も、20世紀中盤で太平洋戦争(大東亜戦争)に敗れ、日本列島も結局は半ば植民地と化したのですから――

 そういう意味では、紛れもなく、

 ――五十歩百歩

 ではあったのですが――

 

 それは、ともかく――

 

 中国大陸の人々が、18世紀から19世紀にかけて、アヘンの売り込みという敵対的進出に曝され――

 日本列島の人々が、16世紀から17世紀にかけて、キリスト教の流布という敵対的進出に曝された――

 という違いは――

 中国大陸の人々が、19世紀中盤にアヘン戦争という挫折を経験し――

 日本列島の人々が、20世紀中盤に太平洋戦争という挫折を経験した――

 という違いとなって結実をした――

 といえるでしょう。

“アヘン問題への危機感”の本態

 ――アヘン戦争のときに、林(りん)則徐(そくじょ)が抱いたアヘン問題への危機感は、東アジアの全域はおろか、中国の全土へ広まることさえ、なかった。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ここでいう、

 ――アヘン問題への危機感

 とは何か――

 

 ……

 

 ……

 

 いわゆる、

 ――アヘン問題

 の要点は――

 11月27日の『道草日記』で述べたように――

 イギリス商人が不当に売りつけていた麻薬アヘンによって、中国の全土の人々の心身の健康が損なわれ、社会の風紀が乱れていたこと、および、そのアヘンの買い付けと引き換えに、皇朝・清の基軸の財貨であった銀が西欧へ大量に流出をしていたこと、の2点でした。

 

 が――

 それは、アヘン問題の表層といってよいでしょう。

 

 ――アヘン問題

 には深層があります。

 

 それは、

 ――西欧による東アジアへの敵対的進出

 という深層です。

 

 ――敵対的

 がキツすぎるなら、

 ――非友好的

 に改めましょう。

 

 イギリス側は、中国側と仲良くしたくて、アヘンを売りつけていたわけではありません。

 ただ、自分たちの国益を追い求めた結果、アヘンを売りつけるに至りました。

 

 よって、

 ――東アジアへの敵対的進出

 は、あくまでも結果であって――

 例えば、

 ――イギリス政府による外交方針

 といった明確な原因に端を発していたわけではありません。

 

 つまり、

 ――西欧による東アジアへの敵対的進出

 を、

 ――西欧による東アジアへの侵略

 といいかえることは――

 少なくともアヘン戦争が始まる直前――19世紀の序盤――までにおいては――

 少し無理があったのです。

 

 が――

 結果として、そうなっただけにせよ――あるいは、意識的ではなかったせよ――

 イギリス側によるアヘンの売りつけは、明らかに中国側に対する敵対性を帯びていました。

 

 この、

 ――西欧の敵対性

 に一早く気づいて備えることができなかったということ――

 そのことの認識が、

 ――アヘン問題への危機感

 の本態です。

 

 この危機感が、中国の全土の人々の間で円滑に共有をされることがなかった、という事実――この歴史的な事実が、アヘン戦争の災禍をいっそう際立たせているように――

 僕には思えます。

それでも中華思想は捨てられなかった

 ――アヘン戦争のときに、林(りん)則徐(そくじょ)が抱いていたであろう決死の覚悟の背景には、冷静な計算が隠されていたのでは?

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 その計算とは、

 ――アヘン問題に取り組む皇朝・清の欽差(きんさ)大臣――特命全権大臣――がイギリス軍との戦闘で死ぬことによって、この問題が、東アジア文明圏の危機に直結をしているとの認識が、東アジアの全域へ広がるに違いない。

 との見込みです。

 

 実際には――

 林則徐は欽差大臣の任を解かれ、左遷をされます。

 

 つまり、イギリス軍との戦闘で死ぬことはできなくなりました。

 

 が――

 もとより、死ぬことが目的ではなかったので――

 林則徐は、すぐに次の手を打ったのです。

 

 それは――

 欽差大臣の地位を活かして集めた西欧列強に関する情報を、中国の全土――ひいては、東アジアの全域――に広く知らしめることでした。

 

 その情報を、林則徐は友人に伝え――

 その友人が書物にまとめ、実際に当時の西欧の情勢が広く知られました。

 

 その結論は、

 ――西欧列強と争っても抗えない。まずは西欧列強に従い、学び、抗える力を蓄えるべきだ。

 というものでした。

 

 が――

 この結論は、少なくとも中国では、それほど重くは受け止められませんでした。

 

 理由は色々と挙げられますが――

 要するに、中国の人々は、アヘン戦争の結果を目の当たりにしても、なお中華思想華夷思想)を捨て去ることができなかったのです。

 

 ――そうはいっても、やはり、我らは華であり、彼らは夷である。

 と――

 

 それは林則徐の誤算であった、と――

 僕は想像をします。

 

 中国の人々は、なぜ、アヘン戦争の結果を目の当たりにしても、なお中華思想を捨てることができなかったのか――

 

 その理由は――

 アヘン戦争の負け方にあったと考えられます。

 

 きのうの『道草日記』で、提督・関(かん)天培(てんばい)の戦死に触れましたが――

 この武官の奮闘は、実は、例外中の例外でして――

 清の多くの将軍・提督たちは、まともに戦わずに逃げたり死んだりしています。

 

 イギリス軍が中国の内陸へ侵入した際には――

 ホームで迎え撃っている清の兵が、アウェイで攻め寄せているイギリスの兵よりも少ない――

 ということがありました。

 

 つまり――

 清は、イギリスの侵略に対し、大規模で組織立った反抗が、できなかったのです。

 

 なぜ、そんなことになったのか――

 

 おそらく――

 全軍を束ねうる最高指揮官がいなかったからでしょう。

 

 その指揮官の役割は――

 本来は、ときの君主――道光(どうこう)帝――が果たすべきでした。

 

 が――

 道光帝の体たらくは、11月27日以降の『道草日記』で繰り返し述べてきた通りです。

 

 その役割を果たしうる人物の最有力候補は、当時、間違いなく、林則徐であったと、僕は思いますが――

 その林則徐も、任地・広東における海軍の指揮権を与えられていたにすぎません――清の全軍の指揮権を与えられていたわけではなかったのです。

 

 よって――

 仮に、林則徐が最後まで罷免をされずに広東の地で10万人以上の兵と共に奮戦をし、壮烈な戦死を遂げたとしても――

 それは、あくまで広東での局地戦とみなされ、アヘン問題への危機感が、東アジアの全域はおろか、中国の全土へ広まることさえ、まずなかったに違いないのですね。

 

 林則徐は、アヘン戦争の勃発後10年で世を去っています。

 アヘン戦争の結果を目の当たりにしても、なお中華思想にしがみつこうとした後世の趨勢を、林則徐は、おそらくは知りません。

 

 もし、知ったとしたら――

 その徒労感はいかばかりであったか、と――

 思わずにはいられません。

林則徐の覚悟と、その背景にあった計算――

 ――アヘン戦争のときに、林(りん)則徐(そくじょ)は、文官でありながら、任地・広東における海軍の指揮権を手にしていた。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 文官ですから――

 もちろん、林則徐に軍の実際的な統率能力はなかったでしょう。

 

 このために――

 有能な武官が補佐をしていたはずである――

 ということも、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 その代表格が――

 関(かん)天培(てんばい)という提督であったと考えられます。

 

 関天培は一兵卒から叩き上げで提督にまで上り詰めた人物だそうで――

 人望に厚く、様々な身分の者たちから慕われていたといいます。

 

 年齢は林則徐より少し上でした。

 

 林則徐が罷免をされ、アヘン問題に携わることができなくなった後も――

 イギリス軍への備えを怠らず――

 実際にイギリス軍の精鋭が攻め寄せてきたときには、旧式の砲台で可能な限りの抗戦を試みた後、最後は自殺同然の戦死を遂げたと伝えられています。

 

 物語などでは、自身の周囲に多量の爆薬を置き、イギリス兵をおびきよせて壮烈に爆死をする描写が有名です。

 

 イギリス側の記録によると――

 壊滅的な敗北が判然とした後も、30名足らずの側近らと最期まで戦場にとどまり――

 遺体となって発見をされたそうです。

 

 おそらくは、林則徐も――

 途中で罷免をされることがなければ――

 関天培と同じような最期を迎えたことでしょう。

 

 少なくとも――

 その覚悟を決めて特命全権大臣――欽差(きんさ)大臣――の任命を受けたと考えられます。

 

 その覚悟が十分に伝わったので――

 林則徐は、文官でありながら、武官からも心酔をされたに違いありません。

 

 その覚悟の背景には――

 林則徐らしい冷静な計算が潜んでいたと、僕は考えます。

 

 すなわち、

 ――清の皇帝の名代である欽差大臣がイギリス軍との戦闘で死ぬようなことになれば、事の深刻さが東アジア全域に伝わるに違いない。

 という計算です。

 

 その「深刻さ」とは、

 ――アヘン問題は、たんに皇朝・清の興亡だけでなく、東アジア文明圏の存亡に直結をしている。

 という認識です。

林則徐は武官からも心酔をされた

 ――アヘン戦争のときに、道光(どうこう)帝は林(りん)則徐(そくじょ)に“片思い”をしていた。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 そして――

 その“片思い”は――

 もし、林則徐が、道光帝に、

 ――アヘンの完全根絶に踏み切ることで、外国人たちが怒り狂って都へ攻め上ってくる場合に、どこに防衛線をお引きになりますか。

 と質していれば、たちどころに吹き飛んでいたであろう――

 とも述べました。

 

 道光帝は、林則徐に対し、

 ――アヘンは完全に根絶せよ。ただし、外国との紛争は絶対に起こすな。

 といった無理難題を言外に押し付けていたと考えられます。

 

 林則徐にとっては、アヘンの完全根絶に踏み切れば、イギリスが黙っていないことは、わかりきったことでしたが――

 おそらく、道光帝は、わかっていなかったか――わかっていても、わかっていないふりをしていたか――なのです。

 

 要するに――

 そこまで考えてしまうと、自分の頭脳では処理をしきれなくなってしまうことが、意識的にせよ無意識的にせよ、わかっていたために――

 道光帝は、そこまでは考えないようにしていた――

 ということではなかったか――

 ということです。

 

 ――無責任

 といえば、無責任なのですが――

 

 あえて突き放したいい方をすれば、

 ――能力的に、そこまでの君主であった。

 ということでしょう。

 

 いずれにせよ――

 道光帝が言外に、

 ――外国との紛争は絶対に起こすな。

 と求めていることを――

 林則徐は十分に感じとっていたと考えられます。

 

 よって――

 林則徐は、アヘンの完全根絶に踏み切った結果、イギリスが戦争を仕かけてくる場合の防衛線を、既存の国境線――つまり、海岸線――に定めざるをえなかったはずです。

 

 その結果――

 林則徐は、文官でありながら、任地・広東における海軍の指揮権を手にすることになった、と――

 考えられます。

 

 伝わるところによると――

 10万人以上の兵を集め、イギリス軍の侵攻に備えていたといわれます。

 

 もちろん――

 有能な武官が支えていたことは間違いありません。

 

 アヘン戦争の物語などで壮烈な戦死が描かれた提督・関(かん)天培(てんばい)などは――

 その代表格でしょう。

 

 林則徐は、武官からも心酔をされた稀有な文官でした。

道光帝は林則徐に“片思い”をした

 ――アヘン戦争の際に、林(りん)則徐(そくじょ)と道光(どうこう)帝とが出会い、思いがけず、気が合ってしまったことは、中国近現代史にとって、最初で最大の不幸ではなかったか。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 が――

 実は、

 ――気が合う。

 と思ったのは道光帝だけで――

 林則徐は、当初から醒めていた可能性もある、と――

 僕は感じています。

 

 つまり――

 道光帝のほうは大喜びで林則徐を抜擢したけれども――

 林則徐のほうは仕方なく道光帝の任命に従っただけ――

 ということです。

 

 精査・熟慮の上で決断を行うという資質が、林則徐にはあったが、道光帝にはなかった――

 ということは、12月1日の『道草日記』で述べた通りです。

 

 2人の結論は、

 ――アヘンの完全根絶

 で一致していました――それは間違いありません。

 

 が、おそらく――

 林則徐の結論は、

 ――アヘンの部分容認

 をも十分に検討した結果であり――

 道光帝の結論は、

 ――アヘンの完全根絶

 に不用意に飛びついた結果です。

 

 つまり――

 道光帝の結論は、林則徐の結論の、

 ――周回遅れ

 であった可能性が高いのです。

 

 その“周回遅れ”に――

 道光帝は気づかなかったでしょう。

 

 が――

 林則徐は気づいたはずです。

 

 すぐには気づけなかったかもしれませんが――

 だんだんと気づいていったことでしょう。

 

 おとといの『道草日記』で述べたように――

 2人は、いわゆるアヘン問題について、何回も論じ合っています。

 

 が――

 君主と臣下との関係ですから、もとより対等に論じ合えたはずはありません。

 

 おそらく、道光帝が質問を差し向け、それに林則徐が回答を差し上げるといった形式の対話であったと考えられます。

 つまり、道光帝のほうは、自分が疑問に思ったことは何でも確かめられましたが、林則徐のほうは、おそらく、ほとんど何も確かめられなかった、ということです。

 林則徐としては、下される質問の背景を読み込むことで、道光帝の胸中を察するよりほかはなかったでしょう。

 

 このような非対等の議論を経て――

 道光帝が林則徐に、

 ――片思い

 をした――

 というのが、アヘン戦争の発火点の真相のような気がします。

 

 もし、2人が対等に議論をしていたなら――

 道光帝は早々と林則徐の抜擢を見送り、その結果、アヘン戦争は起こらなかったように思います。

 

 例えば、道光帝が、林則徐から、

 ――アヘンの完全根絶に踏み切ることで、外国人たちが怒り狂って都へ攻め上ってくる場合に、どこに防衛線をお引きになりますか。

 と質されれば――

 道光帝の“片思い”は一気に吹き飛んだことでしょう。

 

 “片思い”が吹き飛べば、抜擢もなかったでしょう。

中国近現代史の最初にして最大の不幸

 アヘン戦争について、

 ――林(りん)則徐(そくじょ)と道光(どうこう)帝とは、思いがけず、気が合ったのではないか。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ……

 

 ……

 

 ――アヘン戦争の発火点は、どこであったか。

 ということについて、少し考えてみます。

 

 ふつうに考えれば――

 それは、皇朝・清が、

 ――アヘンの完全根絶

 に踏み切った時点です。

 

 具体的には――

 林則徐が、アヘン問題の特命全権大臣――欽差(きんさ)大臣――に任じられ、任地へ赴き、イギリス商人らが蓄えていたアヘンを全て差し出させ、その廃棄を実行に移しえた時点――

 です。

 

 11月27日の『道草日記』で述べたように――

 全てのアヘンの完全な廃棄は、政治課題としては大変に難しく、おそらくは、林則徐でなければ、実行は無理であったでしょう。

 

 裏を返すと――

 全てのアヘンが完全に廃棄をされる前の時点で、道光帝が林則徐の任を解いていたならば――

 アヘン戦争は起こらなかった可能性があります。

 

 実際には――

 その時点の後で任を解いていたので、アヘン戦争は起こり――

 このことが、その後の中国近現代史に――ひいては、東アジア近現代史に――暗い陰を落としました。

 

 とはいえ――

 道光帝にとって――

 全てのアヘンが完全に廃棄をされる前の時点で林則徐の任を解くことは、思いもよらなかったでしょう。

 

 そもそも――

 道光帝は、全てのアヘンの完全な廃棄を実行に移すために、林則徐をとくに用いたわけです。

 

 さらにいえば――

 もし、僕が考えるように、本当に道光帝が林則徐の人となりの中に自分と相通じる気質を感じとっていたのだとしたら――

 なおのこと、罷免はありえません。

 

 たとえ、宮廷の側近らがこぞって、

 ――林則徐を外して下さい。

 と懇願をしても――

 聞く耳をもたなかったでしょう。

 

 ――情

 に裏打ちをされた、

 ――理

 というものは、なかなか覆せません。

 

 道光帝自身は、おそらく、

 ――理

 によって林則徐を用いたつもりであったでしょうが――

 その“理”は、

 ――情

 によって堅牢に下支えをされていた可能性が高い、と――

 僕は考えています。

 

 ということは――

 アヘン戦争の真の発火点は、皇朝がアヘンの完全根絶に踏み切る以前にあったとみるほうがよいでしょう。

 

 では――

 それは、いつか――

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん――

 それは、道光帝が林則徐に出会った時点です。

 

 もし、そうならば――

 

 この2人が出会い、思いがけず、気が合ってしまったことこそが、中国近現代史の最初にして最大の不幸であった――

 という話になります。

 

 因果なことです。

林則徐と道光帝とは、思いがけず、気が合った

 アヘン戦争を語る上で必須の人物である林(りん)則徐(そくじょ)と道光(どこう)帝――この2人は、“感情の分布図”において、どちらも“憂・勇”領域に配される――

 ということを――

 きのう・おとといの『道草日記』で述べました。

 

 この2人は、おそらく――

 思いがけず、気が合ったのですね。

 

 林則徐が道光帝によって、いわゆるアヘン問題の特命全権大臣――欽差(きんさ)大臣――に任じられた際に――

 道光帝は、林則徐を宮中に呼び出し、誰もまじえずに小一時間ほど、じっくりと話し合ったといいます。

 

 そのような話し合いが3日ほど続けて持たれ――

 やがて、林則徐は宮城(きゅうじょう)の敷地内を馬に乗って進むことが許されます。

 

 これは、当時としては、この上ない栄誉でした。

 

 そのような栄誉に浴させると決めたのは――

 道光帝が林則徐の能力だけでなく、性格も気に入ったからでしょう。

 

 ちなみに――

 林則徐は、武官でなく文官であったので、馬に乗るのは不得意でした。

 

 宮城の敷地内を馬に乗って進むことが許されても、かえって困ったことになったようで――

 おっかなびっくりの騎乗であったと思われます。

 

 その様子をきいて気の毒に思ったのか――

 道光帝は馬でなく輿(こし)に乗るように命じました。

 

 これは、臣下にとっては、異例のことであったといいます。

 輿に乗る方が馬に乗るよりも頭が高くなるのですね――肩に担がれた輿の上に椅子を載せ、その椅子に座って進むからです。

 

 それくらいに――

 道光帝は、林則徐をいたく気に入り、深く信じ、心から頼ったようです。

 

 人の気質には一般的な傾向がある、ということを――

 11月20日の『道草日記』で述べました。

 

 すなわち、

 ――勇みやすい性格なら喜気が強く、怯みやすい性格なら“憂気”が強い。

 という傾向です。

 

 要するに、“憂・勇”領域に配される人物は、人の気質の一般的な傾向から逸脱をしているので、珍しいのです。

 道光帝も林則徐も、その意味で、珍しい人物であったのです。

 

 そんな2人が、アヘン問題の難局において、劇的に出会った――

 

 道光帝の方が、林則徐を一方的に気に入り、信じ、頼ったのではなく――

 林則徐の方も、道光帝を本気で敬うと決め、信じ、頼ったに違いないのです。

 

 2人とも自分の中に一般的ではない気質を感じとっていて――

 その気質を互いに相手の中に感じとったがゆえに――

 2人は固く信じ、頼り合う関係になったと考えられます。

道光帝は“感情の分布図”のどこに配されるか

 ――アヘン戦争の英雄

 と称えられる林(りん)則徐(そくじょ)は、

 ――感情の分布図

 において、

 ――“憂・勇”領域

 に配される――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 一方――

 11月27日の『道草日記』で述べたように――

 アヘン戦争を語る上で必須の人物は、林則徐以外に、もう一人います。

 

 道光(どうこう)帝です。

 林則徐を、いわゆるアヘン問題の特命全権大臣――欽差(きんさ)大臣――に任じた人物です。

 

 この道光帝は、“感情の分布図”において、どの領域に配されるでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 おそらくは、

 ――“憂・勇”領域

 です。

 

 道光帝は節約を好みました。

 少なくとも、散財を楽しむような喜気とは無縁でした。

 

 その性向は、ほとんど、

 ――ケチ

 といってよい水準でした。

 

 林則徐がイギリス商人からアヘンを没収した際に、その見返りとして茶葉が渡されているのですが――

 その茶葉の調達に要した経費を林則徐は自分たちで用意しました。

 

 しかも、そのことを、わざわざ道光帝に直に報告しているのだそうです。

 

 国庫から支出をしたら、道光帝の機嫌が悪くなることを、林則徐は熟知していたと考えられます。

 

 また――

 アヘン戦争が始まって、いったんイギリスとの間で和議が成ったときに――

 道光帝が真っ先に命じたのは、国防に当たる兵士の数を減らし、軍事費を抑えることでした。

 

 現地の行政官は、イギリス側に不穏の動きがあるとの噂を聞いていたので、

 ――兵士の数を減らすのは、もう少し待って下さい。

 と、理由を添えて願い出たそうですが、

 ――イギリス側が和議を破るつもりなら、そのような噂を流すわけがない。

 と述べ、軍事費の削減を強引に推し進めたといいます。

 

 その後、和議は破られ、中国側は一敗地に塗れるわけですが――

 何とも呆れた吝嗇(りんしょく)家と評さねばなりません。

 

 他方――

 道光帝は勇みやすい性格でもありました。

 

 いわゆるアヘン問題に怯むことはなく――

 その禁令の徹底を命じたところは、道光帝の勇気を裏付けているでしょう。

 

 また、道光帝には、必ずといってよいほどに触れられる逸話があります。

 

 まだ皇子であった頃に、皇朝の宮廷へ宗教系の秘密結社の賊徒が乱入をしたことがあったのですが――

 その際に、道光帝は、自ら武器を取って、これを追い払っているのですね。

 

 まことに勇ましい限りです。

 

 以上のことから――

 道光帝は、“感情の分布図”において、

 ――“憂・勇”領域

 に配されると考えられます。

 

 少なくとも、

 ――“勇・喜”領域

 に配されるには、吝嗇が過ぎ、

 ――“怯(きょう)・憂”領域

 に配されるには、豪胆が過ぎ、

 ――“喜・怯”領域

 に配されるには、狭量が過ぎるようです。

林則徐は“感情の分布図”のどこに配されるか

 ――感情の分布図

 という模式図を、9月24日の『道草日記』で示しました。

 

 横に情動軸、

 

  ←怯(きょう)―――勇→

 

 をとり――

 縦に気分軸、

 

  ←憂―――喜→

 

 をとって――

 第1象限として“勇・喜”領域を――

 第2象限として”喜・怯”領域を――

 第3象限として“怯・憂”領域を――

 第4象限として“憂・勇”領域を――

 それぞれ設えます。

 

 その上で――

 ある人物について――

 これら4つの領域のどこに配すかによって、その人物のおよその気質を表すのです。

 

 例えば、“三世の春”の三帝についていえば、

  康熙(こうき)帝:“憂・勇”領域

  雍正(ようせい)帝:“憂・勇”領域

  乾隆(けんりゅう)帝:“勇・喜”領域

 と表されます。

 

 この“感情の分布図”を考えるとき――

 ――アヘン戦争の英雄

 と称えられる林(りん)則徐(そくじょ)は、どこに配されそうか――

 

 ……

 

 ……

 

 ほぼ間違いなく、

 ――“憂・勇”領域

 でしょう。

 

 林則徐は質素を好みました。

 

 欽差(きんさ)大臣として任地に赴く際に――

 派手な歓待を禁じました。

 

 欽差大臣は皇帝の名代ですから――

 都からの道中、派手な歓待を受けやすいのです。

 

 大役を与えられ、様々な特典や栄誉を手にしても――

 林則徐は全く浮かれませんでした。

 

 喜気とは無縁なのです。

 

 一方――

 アヘン問題という大変な難題から――

 林則徐は逃げませんでした。

 

 常に最悪の事態を思い――

 精査・熟慮を重ね、

 ――何もしないで滅ぶよりは、何かをして滅ぼう。

 と覚悟を決める人物です。

 

 “憂気”に裏打ちをされた勇気を秘めていたに違いありません。

 

  憂 + 勇 = 怒

 であることは――

 9月13日以降の『道草日記』で繰り返し述べています。

 

 林則徐の“怒”は

 ――アヘン

 に向かいました。

 

 ちょうど――

 康熙帝の“怒”が、三藩の乱に際し、明を裏切って清に降伏をした将軍たちへ向かったように――

 林則徐の“怒”は、アヘン戦争に際し、人々の心身の健康を損なわしむる麻薬へ向かいました。

 

 林則徐は――

 彼の主君の高祖父――祖父の祖父――が、そうであったように――

 ほのかな“憂気”を含みつつも、決して怯まない、むしろ勇みやすい人物であったと考えられます。