マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

中大兄皇子は最期まで求心力を保っていたか

 ――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、政権の首班としての求心力を備えていて、その求心力は“クーデターを起こした者の責任感”あるいは“最期まで日本列島の人々と運命を共にする覚悟”に根差していたのではないか。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――最期まで日本列島の人々と運命を共にする覚悟

 と述べました。

 

 この“覚悟”は――

 口でいうほど、簡単ではありません。

 

 とくに難しいのは、

 ――日本列島の人々と――

 というところです。

 

 もし――

 これが、

 ――日本列島の一部の人々と――

 であれば――

 そんなに難しくはないのです。

 

 ――日本列島の人々と――

 というのは――

 要するに、

 ――日本列島の人々の多数派と――

 ということです。

 

 ――最期まで日本列島の人々と運命を共にする覚悟

 を抱くには――

 当然ながら――

 日本列島の人々の多数派の意見を、どんなことがあっても踏まえ続けることが必要です。

 

 これに失敗をすると――

 政権の首班は求心力を失い――

 下手をすれば、排除をされます。

 

 具体的には、

 ――暗殺

 ないし、

 ――造反

 です。

 

 中大兄皇子は、少なくとも通説では、暗殺はされていませんし、また、手ひどい造反にあっている様子もありません。

 

 自身の後継者である息子は、手ひどい造反にあっているのですが――

 それは、自身が亡くなった後のことです。

 

 中大兄皇子自身は、常に日本列島の人々の多数派の声に耳を傾け――

 その声に応える軍事・外交・政治を心がけていたに違いないのです。

 

 ただし――

 これには異説もあるそうです。

 

 ――中大兄皇子は、天智(てんぢ)天皇となった後、病死をしていることになっているが、実は弟に暗殺をされている。

 とか、

 ――自身の後継者として、息子ではなく、弟を指名していたのだが、弟は暗に造反をし、後継者になることを拒んだ。

 とか――

 

 ……

 

 ……

 

 中大兄皇子は、天智天皇となる直前に、都を現在の大阪から志賀に移しています。

 理由は、白村江の戦いに敗れたことで、皇朝・唐の軍隊が、朝鮮半島、九州・中国地方を経て、近畿へ攻め寄せてくる危険性が生じたためと考えられます。

 外国の軍隊が近畿に攻め込んでくるような事態となれば、政権の本拠地は、大阪にあるよりは、滋賀にあったほうが、対処はしやすかったでしょう。

 

 それゆえに――

 この遷都は、支配者階級には一定の理解がされたはずですが――

 非支配者階級には、すこぶる不評であったといいます。

 

 ――中大兄皇子は、民衆が嫌がった遷都を強引に行ったので、最終的には、弟に暗殺をされた――もしくは、造反をされた。

 との考えも、実は、そんなに信憑性がないわけではありません。

 

 が――

 

 いずれにせよ――

 中大兄皇子が、最期まで“責任感”を抱き続け、“覚悟”を秘め続けたことは間違いないでしょう。

 

 中大兄皇子は、クーデターを起こして権力を強引に奪った自身の過去から目を背けるようなことは、最期までしなかったように――

 僕には思えます。

中大兄皇子の“責任感”あるいは“覚悟”

 ――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、白村江(はくすきのえ)の戦いの後の危機的な状況に接し、“権威と権力との緩やかな統合”を捨て、“権力と権威との癒合”に踏み切ったのではないか。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 もう少し噛み砕いていうと、

 ――責任の所在をより明確にした。

 ということではなかったか、と――

 僕は思います。

 

 中国大陸に興った皇朝・唐からの外交圧力に抗うべく――

 クーデターを起こして蘇我氏の専横を正し、“権威と権力との分離”を終わらせ――

 軍事・外交・政治の権力を一手に引き受ける一方で、自ら天皇の位に就くことは拒むことで、“権威と権力の緩やかな統合”を試み――

 白村江の戦いで敗れて、皇朝・唐からの外交圧力が増し、日本列島への侵略を覚悟したことで、あえて“権威と権力との癒合”に踏み切った――

 そういうことではなかったかと思うのです。

 

 外国と戦争をするにせよ、外国と交渉をするにせよ、外国に服従をするにせよ――

 日本列島の政権が挙国一致で対応をするには、政権のトップが誰であるのかを明らかにしておく必要があります。

 

 そのために――

 中大兄皇子は、クーデターで政権を握ったという過去を抱えたままに天皇の位に就いたと考えられます。

 

 もちろん――

 そんなことが可能であったのは――

 クーデターを起こした後、しっかりと軍事・外交・政治の権力を一手に引き受けていたからです。

 

 もし、権力の掌握が不十分であったなら――

 白村江の戦いで敗れた後、失脚をしていたに違いありません。

 

 白村江の戦いで敗れたのは、中大兄皇子の政権の判断が甘かったから――もっといえば、中大兄皇子の判断が甘かったから――に他ならないからです。

 軍事や外交は、中大兄皇子の苦手とするところであったのでしょう。

 

 というよりも――

 当時の日本列島の人々は、対外戦争や対外交渉の経験が殆どありませんでした。

 

 中大兄皇子も、そうであったはずです。

 

 が――

 国内治世の経験は豊富であった――少なくとも、政権の首班としての力量は確かであった――

 そのように、僕は考えます。

 

 それゆえに――

 白村江の戦いで失敗をしても、中大兄皇子は政権を保つことができたのでしょう。

 

 中大兄皇子の政権の首班としての求心力の一つに、

 ――クーデターを起こした者の責任感

 があったことは想像に難くありません。

 

 あるいは、

 ――最期まで日本列島の人々と運命を共にする覚悟

 です。

 

 外国の軍隊が攻めてきたら、自ら先頭に立って戦う――和平の模索は自らの主導で行う――不幸にして服属を強いられる場合には、自らの裁量で服属を決める――服属を強いられた結果、自身が処刑をされることも厭わない――

 その覚悟です。

中大兄皇子が天皇の位に就いた理由

 ――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、クーデターを起こした責任感から、あえて権力を一手に引き受けた、と考えられる。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 そんな中大兄皇子も――

 クーデターを起こしてから20年余り後になって――

 ついに天皇の位に就いています。

 

 天智(てんぢ)天皇です。

 

 つまり――

 中大兄皇子の政権においても、最終的には、

 ――権威と権力との癒合

 が起こっているのですね。

 

 ――権威と権力との緩やかな統合

 に専念をしていたようなのに――

 なぜ、最終的には天皇の位に就いてしまったのか――

 

 これは、

 ――結局は天皇になりたかったからクーデターを起こしたのではないか。

 と誹られても仕方のないところで――

 もちろん――

 そんなことは中大兄皇子にも十分にわかっていたでしょう。

 

 にもかかわらず――

 中大兄皇子天皇の位に就いた――なぜなのか――

 

 日本史の謎の1つとされています。

 

 この謎については――

 日本史研究者らから様々な仮説が示されているようです。

 

 ――天皇家の血筋の観点で、中大兄皇子より正統な天皇候補が他にいたから――

 とか、

 ――同母妹と男女の仲にあったらしいことが当時、問題視をされていたから――

 とか、

 ――中大兄皇子が廷臣たちに不信がられ、信頼を得るのに歳月を要したから――

 とか――

 

 史料を忠実にあたると――

 そのような仮説に辿り着くのでしょう。

 

 僕は、

 ――白村江(はくすきのえ)の戦い

 に敗れたから――

 と感じます。

 

 ――白村江の戦い

 については――

 2019年9月16日の『道草日記』で、やや詳しく述べました。

 

 朝鮮半島で起こった戦いです。

 中国大陸で新たに起こった皇朝・唐の外交圧力に対し、中大兄皇子の政権は、おそらくは先手を打とうとして失敗をし、むしろ、危機的な状況を強めてしまいました。

 その後、中大兄皇子は、有名な防人(さきもり)の制度を整えるなど、日本列島本土の防衛に忙殺をされていきます。

 

 その危機的な状況に備えるには、

 ――権威と権力との緩やかな統合

 に拘っているわけにはいかなくなった――

 それで、天皇の位に就くことにした――

 

 史料の裏付けは全くないようですが――

 そのように、僕は考えています。

中大兄皇子の優れていた点

 ――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、“権威と権力との緩やかな統合”に成功をした。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 具体的には、

 ――自ら権力を一手に引き受けた一方で、権威を手に入れることは拒んだ。

 ということです。

 

 別の人物を天皇に立て――

 自らは、その後継者の地位に甘んじたのですね。

 

 なぜ、自ら天皇にならなかったのか――

 

 クーデターを起こしてまで権力を握った理由は、決して天皇としての絶対的な権威が欲しかったからではない、ということを――

 国の内外に明らかにする狙いがあったと考えられます。

 

 その狙いが何のためであったかというと――

 それは――

 おそらく、

 ――中国大陸に興った皇朝・唐の外交圧力に効果的に抗うための体制づくり

 でした。

 

 当時の日本列島の人々は――

 中国大陸の勢力が、朝鮮半島を経て、日本列島に襲い掛かってくることを深刻に恐れていたと、いわれています。

 

 日本列島への侵略を跳ね返すには、軍事・外交・政治を司る権力が、天皇としての絶対的な権威と密接に連携をとった上で、粛々と行使をされていくことが必要でした。

 権力を用いる側と権力に仕える側とが同じ権威の前に等しく跪(ひざまず)いている必要があったのです。

 

 ――クーデターを起こして強引に権力を握ったのだから、天皇にはならないほうがよい。

 という発想は――

 現代の日本列島に住まう多くの人々にとっても、大いに理解をされやすいところでしょう。

 

 とはいえ――

 

 この発想が中大兄皇子の優れていた点である――

 というわけではありません。

 

 中大兄皇子の優れていた点は、軍事・外交・政治を司る権力を人任せにせず、自ら一手に引き受けたところです。

 

 それは、

 ――クーデターを起こした者の責任感

 といえました。

 

 明治政府の首脳部の誰もが希薄であった責任感といってよいでしょう。

 

 そして――

 現代の日本列島に住まう多くの人々にとっても――

 それは、おそらくは、なかなか理解をされにくい責任感です。

“権威と権力との緩やかな統合”に成功をした政権――中大兄皇子の政権

 明治維新の担い手たちは、西欧列強の外交圧力という危機に対し、

 ――権威と権力との癒合

 という過ちを犯した――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 日本史の理を考えたなら、

 ――権威と権力との緩やかな統合

 を試みるのがよかった、と――

 

  ……

 

 ……

 

 実は――

 この“緩やかな統合”を――

 明治維新の1200年ほど前に果たしていた政権があります。

 

 ――大化の改新

 で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の政権です。

 

 ……

 

 ……

 

 天皇の第二皇子として生まれた中大兄皇子は――

 政治の実権を有力な豪族――蘇我(そが)氏――に奪われていた現状を憂いつつ、当時、中国大陸で興った強力な皇朝・唐が、朝鮮半島を介し、日本列島に外交圧力をかけてきていたことに危機感を覚え、その危機に対し、天皇の権威の下、一致団結をして立ち向かうために――

 その政治の実権を握っていた有力な豪族の当主――蘇我入鹿(そがのいるか)――を宮廷に呼び寄せ、欺き殺すというクーデターを試みました。

 

 いわゆる乙巳(いっし)の変です。

 

 その後、政治の実権を握った中大兄皇子は――

 自ら天皇の位に就くことができたにもかかわらず――

 それを拒み、皇太子として政権の実務を司る道を選びます。

 

 中大兄皇子がクーデター後に即位をしなかったのは、

 ――天皇の位が欲しくてクーデターを起こした。

 と誹られるのを恐れたためと考えられます。

 

 もちろん――

 中大兄皇子がクーデターを起こしたのは――

 それまでに蘇我氏が確立をしつつあった、

 ――権威と権力との分離

 を正すためでしたが――

 その“分離”の負の側面だけでなく、正の側面も含めて――

 中大兄皇子は、きちんとわかっていたのでしょう。

 

 クーデターによって権力を握り、その上、権威まで手に入れようとすれば、どうしても風当たりは強くなります。

 その愚を犯さなかったのです。

 

 が――

 権力は、しっかりと握りました。

 

 それも、クーデターの盟友らと分け合うことなく、一人で握りました。

 その後の軍事・外交・政治の一切を引き受けたのです。

 

 そして――

 後世、

 ――大化の改新

 と呼ばれる抜本的な政治改革に邁進をしていきます。

 

 ……

 

 ……

 

 ――大化の改新

 は、

 ――明治維新

 に似ています。

 

 どちらもクーデターで始まりました。

 どちらも海外からの外交圧力が背景にありました。

 

 他方――

 あきらかに違うところもあります。

 

 それは、

 ――明治維新

 では、

 ――権威と権力との癒合

 が起こり、

 ――大化の改新

 では、

 ――権威と権力との緩やかな統合

 が起こった――

 という点です。

 

 中大兄皇子は、権力を握った自分が権威まで手に入れると、政権が長続きしないことを肌で感じ取っていたのではないでしょうか。

 

 つまり、

 ――日本史の理(り)

 を無意識に弁えていたのではないか――

 ということです。

日本史の理

 ――象徴天皇制は日本史の理(り)に適っている。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ……

 

 ……

 

 ――日本史の理

 という言葉を用いました。

 

 おそらく――

 このような語句は存在をしません。

 

 僕が咄嗟に思い付いた新造の語句です。

 

 意味は、

 ――日本列島における過去2000年ほどの政治史の流れに見出せる原理

 といったところです。

 

 そのような原理の1つに、

 ――権威と権力との分離

 があります。

 

 やや詳しく記せば、

 ――日本列島においては、権力は権威から常に遠ざかろうとする。

 となります。

 

 鎌倉末期――

 後醍醐(ごだいご)天皇は、権威に権力を呼び込もうとしました。

 

 その結果――

 建武(けんむ)政権が興り、いわゆる建武の新政が始まりましたが――

 わずか3年で頓挫をします。

 

 その後――

 しばらくは南北朝期の騒乱が続き――

 やがて、足利義満による室町幕府の隆盛という形で、権力が権威から遠ざかりました。

 

 その後――

 室町幕府の衰退という形で、権力が分散をし、権威も薄れ――

 日本列島は戦国期に入っていきます。

 

 その分散をした権力に再び集約を与えたのが――

 織田信長であり、豊臣秀吉であり、徳川家康でありました。

 

 権力が集約をみたことで――

 権威も輝きを取り戻しました。

 

 徳川幕府の確立をもって――

 権力は権威から可能な限り遠ざかりました。

 

 その結果――

 日本列島に260年の太平がもたらされた――

 

 そう考えることができます。

 

 が――

 

 そこへ西欧列強の外交圧力がかかりました。

 

 ――植民地にされるかもしれぬ!

 

 危機感を抱いた者たちが――

 権威と権力との統合によって――

 その危機を脱しようとしました。

 

 それが高じて、

 ――明治維新

 に至ったと考えられます。

 

 より厳密には、

 ――王政復古の大号令

 です。

 

 このときに――

 明治維新の担い手たちは、

 ――権威と権力との癒合

 という過ちを犯した、と――

 僕は考えます。

 

 西欧列強の外交圧力という危機に対し――

 権威と権力との統合で対処をしようとしたことは、おそらくは過ちではありません。

 

 その統合を、

 ――協働

 とか、

 ――連携

 とかいった緩やかな手法でもたらさなかったことが過ちでした。

 

 緩やかな手法の方が、

 ――日本列島においては、権力は権威から常に遠ざかろうとする。

 という原理――つまり、

 ――日本史の理

 に適っていたのは自明でしょう。

 

 ――王政復古の大号令

 の頃――

 後の明治政府の首脳部の誰かが――

 権力を、“宰相級の有力な廷臣”として、名実ともに、きちんと握る必要があった、と――

 僕は考えます。

 

 西郷隆盛か、岩倉具視か、木戸孝允か――

 誰でもよい――

 

 権威の体現者である明治天皇以外であれば、誰でもよかった――

 

 徳川慶喜でもよかった――

 

 それなのに――

 権力の“実”のほうだけを明治政府の首脳部で分け合って、名のほうは権威の体現者である明治天皇に差し出してしまった――

 

 それは、あきらかに、

 ――日本史の理

 に抗う悪手であった、と――

 いってよいでしょう。

 

 この悪手を端緒として――

 後世、いわゆる統帥権干犯問題などから日本列島に無責任な政体――政治の体制――が生まれ、「太平洋戦争」という名の挫折へと突き進んでいった――

 と考えられます。

象徴天皇制は日本史の理に適っている

 日本国憲法が掲げる象徴天皇制は――

 徳川幕府が完成形に導いた、

 ――権威と権力との分離

 を奇妙なくらい正確に受け継いでいるのではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 日本国憲法については――

 様々な議論がありますね。

 

 ――太平洋戦争に敗れてアメリカに押し付けられた憲法だ! 恥ずべきだ!

 という人がいれば、

 ――第二次世界大戦終了当時の最先端の理念が織り込まれた素晴らしい憲法だ。 

 という人もいます。

 

 日本国憲法の成立の過程を辿ると――

 どちらの見方にも理があるように思われます。

 

 簡単に結論を出すことはできません。

 

 が――

 こと象徴天皇制に限っていえば、

(日本列島における過去2000年ほどの政治史の流れを、これほど自然に受け継いだ制度は他に見当たらないのではないか)

 と思えるほど理に適っている、と――

 僕は思います。

 

 これは――

 決してアメリカが押し付けた政体――政治の体制――ではありません。

 

 アメリカが追認をし、勧奨をしたという面は否めませんが――

 アメリカの当局者たちが自分たちの価値観に基づいて編み出したアメリカ流の政体というわけではありません。

 

 また――

 これは――

 決して当時の最先端の理念というわけでもありません。

 

 理念として明示をされ、共有をされた点は前衛的ですが――

 過去2000年ほどの――とりわけ建武政権の頃から現代に至るまでの700年ほどの――試行錯誤が導いた理念です。

 

 この象徴天皇制を――

 明治政府が確立をした立憲君主的な天皇制と比べて、

 ――異様だ。

 という人が、もし、いたとしたら――

 その人は、

 ――日本列島における過去2000年ほどの政治史の流れをよくわかっていない人

 といってよいのではないでしょうか。

徳川幕府が完成形に導いた“権威と権力との分離”

 鎌倉末期の有力な武士であった足利尊氏が、同時代において最終的には敵対をした後醍醐天皇に対し、伝えたかったことは、

 ――権力に権威が結びつくと、権力の過ちを誰も糺せなくなるので、権威と権力とは分かれているほうがよい。

 ということではなかったか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 もちろん――

 これは僕の完全な想像ないし空想であり――

 史料的な裏付けがあるわけではありません。

 

 が――

 平安末期以降、鎌倉に幕府が成立をし、京の朝廷との間で、

 ――権威と権力との分離

 が試み始められ――

 それが、鎌倉期を通し、ある程度は効力を発しつつあったことを、足利尊氏足利尊氏を慕っていた武士らは、漠然と感じていたのではないか――

 

 少なくとも――

 そんな想像ないし空想をすることは――

 それほど突飛なこととは思われません。

 

 現に――

 その分離は、織豊期以降、江戸期にかけて完成をされ、目にみえて効力を発し始めたたと考えられます。

 

 江戸期、260年の長きにわたって曲がりになりにも太平の世がもたらされたことは、日本史上、空前の出来事といってよく――

 その僥倖がもたらされた要因の筆頭は、

 ――権威と権力との分離

 ではなかったか、と――

 僕は感じています。

 

 その分離の完成形を――

 明治政府は、いささか不用意に壊した、と――

 考えることができます。

 

 具体的には――

 明治政府の首脳部が、徳川幕府から政権を奪い取って権力の行使を始める際に――

 明治天皇を権力の源泉である武力の元締めに不用意に据えてしまったこと――

 これが失敗でした。

 

 その後の歴史をみるならば――

 武力の元締めは、天皇でないほうがよかった――征夷大将軍でも、摂政・関白でも、太政大臣でも、内閣総理大臣でもよいから――

 とにかく、天皇でないほうがよかった――

 

 そう思います。

 

 ……

 

 ……

 

 徳川幕府が完成形に導いた、

 ――権威と権力との分離

 は――

 その後、太平洋戦争の挫折を経て、アメリカ軍ないしアメリカ政府によって再びもたらされました。

 

 皮肉といえば、皮肉ですが――

 

 それが――

 たんなる偶然なのか――

 それとも外国人にも即座にわかるほどに自明の理であったのか――

 

 そこは――

 いま一つ判然としません。

 

 が――

 

 いわゆる戦後の日本国憲法が掲げる象徴天皇制は――

 徳川幕府が完成形に導いた、

 ――権威と権力との分離

 を奇妙なくらい正確に受け継いでいるように――

 僕には思えます。

足利尊氏が後醍醐天皇に伝えたかったこと

 ――明治政府にとっての“足利尊氏”は、徳川慶喜であった。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 鎌倉末期から南北朝初期にかけて、わずか3年で建武政権が瓦解をしたのは――

 おとといの『道草日記』で述べた通り――

 建武政権の首脳部が足利尊氏の処遇を間違えたからです。

 

 明治政府の首脳部は徳川慶喜の処遇を間違えませんでした。

 

 建武政権足利尊氏と敵対をしてしまったのに対し――

 明治政府は徳川慶喜と敵対をしてしまうことがありませんでした。

 

 徳川慶喜明治天皇に終生、恭順の意を示し続けています。

 

 実は――

 足利尊氏後醍醐天皇に対し、終生、敬愛の情を抱き続けていたといわれています。

 

 足利尊氏個人は後醍醐天皇個人に対し、強い敵意は抱いていなかったようなのですね。

 

 が――

 後醍醐天皇の方は、そうではありませんでした――後醍醐天皇個人はともかく、少なくとも建武政権の首脳部は、足利尊氏に強い敵意を抱いてしまったようです。

 

 そんな行き違いが――

 なぜ生まれたのか――

 

 原因については、様々なことがいわれていますが――

 今のところ、

 ――足利尊氏は実に鷹揚で大雑把な性格であり、かつ、とくに政治的な手腕に長けていたわけでもなかったので、ときに不用意な行動をとってしまい、そのために建武政権の首脳部が猜疑心を滾(たぎ)らせた、というのが真相ではなかったか。

 と考えられているようです。

 

 その真相に、どこまで迫れていたのかは、ともかくとして――

 明治政府の首脳部は、徳川慶喜に対し、建武政権の首脳部が足利尊氏に滾らせたような猜疑心を滾らせることは、ありませんでした。

 

 なぜ、そんなことが可能であったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 ――建武政権の失敗を冷静に捉えていたからである。

 と考えています。

 

 明治政府の首脳部は、王政復古の大号令を下す頃に、建武政権のことをかなり詳しく調べたのではないでしょうか。

 その結論が、

 ――徳川慶喜足利尊氏にしてはならない。

 ではなかったか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 この熟慮は――

 明治政府が、建武政権のような短命で終わらなかったことに関しては、まことに功を奏しましたが――

 後世、統帥権干犯問題に火がつき、そのことを皮切りに無責任な政体――政治の体制――が生まれ、その結果、太平洋戦争の挫折に至ったことに関しては、まことに無力でした。

 

 明治政府が統帥権干犯問題に火をつけ、ひいては無責任な政体を生んだ遠因は、権威と権力とを安易に結びつけてしまったことです。

 

 この国でいうところの「権威」は、天皇天皇の周辺が脈々と保ってきた摩訶不思議な権威であり――

 権力によって奪われたり損なわれたりすることが殆(ほとん)どなかった稀有の事象なのですね。

 

 そんな権威が権力と結びつくと――

 誰もが権力の過ちを糺さなくなる――あるいは、糺せなくなる――のです。

 

 それは危険なことです。

 

 南北朝初期――

 足利尊氏が、おそらくは敬愛をしてやまなかった後醍醐天皇に対し、弓を引いてでも伝えたかったことは――

 それに違いないのです。

 

 ――権力の行使は、我ら下々の者にお任せ下さい。権威の保全こそが真のお勤めです。

 

 権威の持ち主が権力の行使で過ちを犯せば、理由はどうであれ、必ずや権威は失われるのです。

 

 そして――

 権力の行使に過ちは不可避です――しょせんは人がやることだからです。

明治政府にとっての“足利尊氏”は誰であったか

 ――鎌倉末期に即位をした後醍醐天皇は、南北朝期が始まる前に早々と足利尊氏を将軍に任じ、彼に幕府を開かせていれば、後世、明治天皇と同じくらいに幅広く日本列島の人々から敬愛をされる天皇になっていたかもしれない。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 もちろん――

 話は、逆でして――

 

 ――明治天皇は、後醍醐天皇の失敗から学んだことを活かし、日本列島の人々の上に巧みに君臨をした。

 と考えられます。

 より厳密には、

 ――明治政府は、建武政権の失敗から学んだことを活かし、日本列島に生じた近代国家を巧みに治めた。

 です。

 

 きのうの『道草日記』で述べたように――

 建武政権の失敗は――

 天皇ないし天皇の周辺が武力を直接的に握らなかったことです。

 

 足利尊氏ら鎌倉末期の有力な武士らを通して――

 武力を間接的にしか握らなかった――

 

 よって――

 肝心の足利尊氏が政権の中枢から離れたことを機に――

 建武政権は、わずか3年で潰えました。

 

 明治政府は同じ失敗を繰り返しませんでした。

 天皇ないし天皇の周辺が武力を直接的に握ったのです。

 

 明治政府の軍隊は、すべて――

 明治天皇が親率をする直轄軍とされました。

 

 ――建武政権が長続きをするには、後醍醐天皇足利尊氏の役割を兼ねる必要があった。

 と、明治政府の首脳部は考えたのではないでしょうか。

 つまり、

 ――明治政府が長続きをするには、明治天皇が“足利尊氏”の役割を兼ねる必要がある。

 ということです。

 

 では――

 明治政府にとっての“足利尊氏”は誰であったのでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 人によっては――

 それは、

 ――西郷隆盛

 であった、というでしょう。

 

 

 そうかもしれません。

 

 が――

 僕は、足利尊氏が他の有力な武士らに与えた影響力を考えると――

 西郷隆盛では、少し力不足のように感じます。

 

 ――西郷隆盛

 については――

 12月30日の『道草日記』でやや詳しく触れました。

 

 たしかに――

 西郷隆盛は、いわゆる“維新の志士”たちからは絶大な人望を寄せられていました。

 

 実際のところ――

 西郷隆盛は、明治政府が成立をして間もなく、首脳部の他のメンバーらと袂を分かち、下野をしています。

 

 そして――

 後年、いわゆる西南戦争を起こし――

 明治政府の転覆を試みるのです。

 

 その動きは――

 建武政権に対する足利尊氏の動きと重なるところがないわけではありません。

 

 が――

 西郷隆盛が強い影響力を及ぼしたのは、いわゆる“維新の志士”たちのみであり――

 江戸末期の有力な武士ら――例えば、大名級・家老級の武士ら――に与えた影響力は限定的であったと考えられます。

 

 では――

 明治政府にとっての“足利尊氏”は誰であったか――

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 (徳川慶喜であろう)

 と思います。

 

 正確には、

 ――“徳川幕府の最後の将軍”としての徳川慶喜

 あるいは、

 ――大政奉還を申し出ることで徳川幕府の政体――政治の体制――に終止符を打った徳川慶喜

 です。

 

 ――徳川慶喜

 については――

 12月20日以降、『道草日記』で繰り返し述べてきました。

 

 明治政府が徳川幕府から政権を奪えたのは――

 徳川慶喜が本気で徳川幕府を――正確には、徳川幕府の政体を――見限ったからです。

 

 もし、徳川慶喜徳川幕府を本気で見限らなければ――

 明治政府が円滑に政権を手にすることはありえなかったでしょう。

 

 その意味で――

 明治政府にとっての“足利尊氏”は、

 ――西郷隆盛

 などではなく、

 ――徳川慶喜

 なのです。

 

 明治政府の首脳部が、徳川慶喜の恭順を速やかに受け入れ、武力を奪いとった上で静岡に隠棲をさせたのは――

 建武政権による“足利尊氏”への仕打ちの不味さを、よくわかっていたからである――

 と考えられます。

 

 そのことは――

 明治政府の首脳部よりも――

 むしろ徳川慶喜自身のほうが強く実感をしていたことでしょう。

 

 ――ここで自分が歯向かえば、南北朝期のような争乱が始まってしまう。

 

 大政奉還の頃に南北朝期のような争乱が始まってしまえば――

 ほぼ間違いなく、西欧列強の軍隊が日本列島に駐留をするような事態になりました。

 

 そうなれば――

 徳川幕府自体は滅亡を免れ、例えば、関東の地方政権として、どうにか存続はしえたかもしれませんが――

 日本列島の大部分は、西欧列強の植民地となったでしょう――武力をもたない天皇家は西欧列強によって断絶を強いられていたかもしれない――

 

 そこまで考え――

 徳川慶喜は、明治政府に対し、ひたすら恭順の意を示し続けたのではないか――

 

 そう――

 僕は思います。