大きな地震の揺れを感じました。
2011年3月11日の東日本大震災を思い出しました。
幸い僕のプライベートの近辺では被害は出ていません。
が――
揺れが強く、長かったので――
どこかで深刻な被害が出ている可能性は低くないと感じます。
この懸念が、
(的外れであればよいな)
と思います。
……
……
今月に入って――
この『道草日記』では、ずっとミャンマーのクーデターに関心をもってきました。
クーデターのような事態は、
――社会的危機
です。
一方――
地震や疫病などは、
――自然的危機
ですよね。
社会的危機と自然的危機とでは――
感じること、考えることが、
(ずいぶん変わってくるな)
ということに――
あらためて気づかされました。
社会的危機では、誰かの心理が背景にあります。
その「誰か」が個人か集団かの違いはありますが――
いずれにせよ、特定の誰かが、何を感じ、何を考えたかということが、決定的な意味をもちます。
自然的危機では、誰かの心理は無縁です。
自分以外の誰かが何を感じ、何を考えたかということは、少なくとも直接的には、何ら意味をもちません。
先ほど、実際に大きな地震の揺れにさらされて思ったことは――
自然的危機に関しては、自分が何を感じ、何を考えるかが大切である、ということです。
これは――
10年前に東日本大震災に遭ったときにも強く思ったことでした。
一方――
社会的危機に関しては、誰が何を感じ、何を考えたかについて、自分が何を感じ、何を考えるかが大切になってきます。
いわば、他者の心を自己の心で映すような考察が必要になってくる――それは、合わせ鏡のようなことです。
鏡を鏡に映すと、無限遠が広がるように感じますよね。
実際には、ごく浅いところしかみていないのに、何だか、ずいぶん奥深いところまでみているかのような錯覚を覚える――
(気をつけなければいけない)
と感じました。