マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

芸の宿命

 いわゆる芸事に関し、

 ――ケレン味がない。

 という貶(けな)し言葉は嫌いである――

 ということを、3月10日の『道草日記』で述べました。

 

 一方、

 ――ケレン味には危険性が潜む。

 ということを――

 3月17日の『道草日記』で述べました。

 

 それで気づいたのですが――

 

 ……

 

 ……

 

 ――ケレン味がない。

 という貶し言葉は、

 ――危険を恐れて縮こまっている。臆病である。

 という意味も、あるのかもしれませんね。

 

 そういうことなら、

 (わからないでもない)

 と思います。

 

 いわゆる芸事では――

 危険を全く冒さずに良い作品を残したり、優れた公演を催すことはできません。

 

 芸の追及では、多かれ少なかれ、危険を冒さないといけない――

 

 ――こんなことをやったら、厳しい批判にさらされるのではないか。

 

 ――こんなふうに表したら、誰かを傷つけてしまうのではないか。

 

 そうした不安や懸念と闘い続けながら――

 芸の神髄を極めていく必要があるのです。

 

 それは――

 おそらくは、

 ――芸の宿命

 です。

 

 ……

 

 ……

 

 しばしば、

 ――芸に携わる者は、例えば、学に携わる者と比べると、一般に気位が高い。

 といわれます。

 

 言葉を飾らずにいえば、

 ――芸術家は、学識者と比べると、概して驕慢である。

 ということです。

 

 これは、

 ――芸の宿命

 を踏まえたら――

 当然のことです。

 

 多かれ少なかれ驕慢でいないと――

 芸などは、やっていけないのです。

 

 何しろ――

 あえて危険を冒し、自身の営みにケレン味を加えていくのが芸である、というのですから――

 

 ……

 

 ……

 

 芸術家は――

 ケレン味を扱うことの不安や懸念に打ち克つために――

 あえて驕慢に浸る必要があります。

 

 あとは――

 その驕慢を表に出すか出さないかの違いでしょう。

 

 いわゆる謙虚な芸術家というのは――

 決して驕慢でないのではなく――

 驕慢であることを巧みに隠しているにすぎない――

 そう思います。