マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“フェルミの逆説”に“オッカムの剃刀”は使うべきか

 ――フェルミの逆説(Fermi paradox)

 に対する3つの答え、

 

 1)我々以外の知的生命体は既に地球に到達をしていて、我々に出会っているが、その事実を我々は知らない。

 2)我々以外の知的生命体は存在をしているが、地球には到達をしていないために、我々には出会えていない。

 3)我々以外の知的生命体は存在をしていないために、我々には出会いようがない。

 

 について考えるときに――

 最近の僕は、以前なら思いもしなかったことを、思うようになりました。

 

 それは、

 (やっぱり、“オッカムの剃刀”は使うべきだよな)

 ということです。

 

 ――オッカムの剃刀(Occam's razor)

 とは、

 ――説明に必要でない仮定はもうけない。

 という方針のことです。

 

 「オッカム(Occam)」は、13世紀後半のイングランドで生まれた哲学者・神学者の通称です。

 

 正しくは、

 ――Ockham

 と綴るそうで――

 これは、本名ではなく、生まれた村の名前だそうです。

 

 本名は、

 ――ウィリアム(William)

 であり――

 姓名はなかったようです。

 

 ――説明に必要でない仮定はもうけない。

 という方針は、オッカム以前にも唱えられていました。

 

 が――

 オッカムが頻繁に用いたことから、

 ――オッカムの剃刀

 の異名がついたそうです。

 

 オッカムの性に合った方針であったのでしょう。

 

 この“剃刀”を用いると、

 ――フェルミの逆説

 への答えは、3)のみです――1)2)は、“剃刀”で削ぎ落されます。

 

 ――我々が我々以外の知的生命体に出会えていないのは、そもそも我々以外の知的生命体などは存在をしていないからである。

 ということです。

 

 あるいは、

 ――我々が我々以外の知的生命体に出会えていないことは、我々以外の知的生命体の存在を仮定することなく、説明されなければならない。

 ということです。

 

 1973年生まれの僕は――

 あと2年くらいで50歳になりますが――

 先ほども述べた通り、以前は――20代や30代のときは――

 ――フェルミの逆説

 に、

 ――オッカムの剃刀

 を用いることを、

 (つまらん考えだ)

 と思っていました。

 

 が――

 今は違います。

 

(“オッカムの剃刀”は侮れない)

 と思っています。

 

 この心境の変化は――

 ここ30年くらいの生物学・化学の知見から、

 ――知的生命体が誕生をする確率はもちろん、生命体が誕生をする確率は、それを掛け合わせることで 10 万 ~ 1,000 万の値を簡単に 1 以下にしてしまうくらいに小さな値かもしれない。

 との見解に妥当性が感じられるようになったことが直接の契機なのですが――

 この妥当性をひとたび感じとった後では、

(やっぱり“オッカムの剃刀”は切れ味が鋭い)

 と思うのです。

 

 よって――

 ここ30年くらいの生物学・化学の知見を踏まえなくても――

 僕は、

 ――フェルミの逆説

 に、

 ――オッカムの剃刀

 は使うべきであった、と――

 今は思っています。

 

 ただし――

 

 それは――

 たんに僕が、

(歳をとった)

 というだけのことかもしれません。