マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

書き言葉は“知的外向性”を強める

 ――科学技術や政治・経済とは無縁の地球外知的生命体がいるとしたら、その生命体は、内向的な要素を多く含む知性を備えていて、書き言葉をもたず、話し言葉のみをもち、その“話し言葉”は、僕らの話し言葉よりも遥かに高度な機能を全うしうるものであろう。

 ということを、きのうまでの『道草日記』で述べました。

 

 ――書き言葉をもたない。

 と考えられるのは――

 書き言葉は、外向的な要素を多く含む知性によって必要とされる道具であって、内向的な要素を多く含む知性には、それほどには必要とされない道具である――

 と考えられるからです。

 

 ここで、もう一度、

 ――知性の外向的な要素

 あるいは、

 ――知的外向性

 について考えてみようと思います。

 

 ここでいう、

 ――外向

 とは、知性の発生部位――つまり、脳――の内側から外側に向かって何らかの作用が及ぶことをいいます。

 

 つまり――

 知性の発生部位で起こっている生命現象――脳の生理現象――と、その知性を宿している生命体の外界で起こっている自然現象――環境の物理現象――との間に、有意な相関がみられるときに――

 その知性を、

 ――外向的

 と評するのです。

 

 その際に、

 ――知的外向性

 の具現に大きな役割を果たすのは――

 個の次元では、

 ――生命体の一部

 です。

 

 より具体的にいえば、

 ――運動器

 です。

 

 僕らヒトでいえば、

 ――手

 です。

 

 もちろん、

 ――足

 も、それなりに大きな役割を果たしていますが――

 少なくとも、

 ――知性

 の観点からいえば、手の働きには遠く及びません。

 

 手の働きは、少なくともヒトにとっては、間違いなく絶大です。

 

 よって――

 あらゆる知的生命体にとっても、ヒトの手に当たる運動器の働きは絶大である、と――

 考えてよいでしょう。

 

 が――

 種の次元では、必ずしも、そうとはいえません。

 

 もちろん、運動器が、ある程度の役割を果たしうることは明らかです。

 

 が――

 真に大きな役割を果たしているのは、運動器ではなく、運動器が扱える道具です。

 

 それは何か――

 

 ……

 

 ……

 

 ――書き言葉

 である、と――

 僕は考えています。

 

 ここでいう「書き言葉」とは、

 ――生命体が運動器を積極的に活かすことによって初めて扱える言葉

 という意味です。

 

 僕らヒトでいえば、

 ――ヒトが手を積極的に動かすことによって初めて扱える言葉

 です。

 

 生命体は、書き言葉をもつことによって、種としての強力で強大な連携が初めて可能になります。

 それによって、その生命体の知的外向性は強まっていく――

 

 書き言葉がなければ、種としての連携は難しく――

 その生命体の知的外向性は著しく制限を受けるでしょう。

 

 なぜならば――

 種としての連携がなく、ただ個々の生命体が各々の運動器を活かすことで環境に及ぼしうる変化というのは、微々たる変化に違いないからです。