マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“病的な体験”が永続をしないこともあるので――

 ――“配線”の乱れは全てのヒトがもっているけれども、その乱れが十分に僅少であれば、“演算”に歪みが生じることはない。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 例えば――

 神経細胞(nerve cell)どうしの誤った接続を、切断はできないまでも、無効にはできていて――

 その無効化によって、

 ――“配線”の乱れ

 が、

 ――“演算”の歪み

 をもたらすことなく、済んでいる――

 ということが、ありうるのではないか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 なぜ、そんなことを思うのかというと――

 実は、体に強く負担がかかっているときに限って“病的な体験”をする人たち、というのが――

 一定数いるのですね。

 

 12月29日の『道草日記』で述べた通り――

 一般には、“病的な体験”は永続をすることが多いのですが――

 

 実は――

 そうでない“病的な体験”も、ないことはないのです。

 

 たしかに――

 とくに、

 ――体に強く負担がかかっているとき

 というわけではないのに“病的な体験”をしているような場合は、たいていは永続をします。

 

 が、

 ――体に強く負担がかかっているとき

 に限って“病的な体験”をしているような場合は、永続をしないことが多いのですね。

 

 ――体に強く負担がかかっているとき

 というのは――

 例えば――

 体が重い病気にかかっているとき、あるいは、大きな怪我を負っているとき、あるいは、特定の種類の薬剤を継続的に飲んでいるとき――

 などです。

 

 ……

 

 ……

 

 この、

 ――体に強く負担がかかっているとき

 に限って起こる“病的な体験”は、それほど永続をしないということの理由を――

 いかに考えるか――

 

 ……

 

 ……

 

 例えば――

 次のように考えることができます。

 

 そういう人たちは、

 ――体に強く負担がかかっているとき

 に――

 その負担があるために、どういうわけか、神経細胞うしの誤った接続をきっちり無効にすることができず――

 それゆえに、“病的な体験”を一過性にしているのではないか――

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん、

 ――体に強く負担がかかっているとき

 でも“病的な体験”を一切しない人たちはいます。

 

 よって――

 この違いも、おそらくは連続的なのです。

 

 つまり、

 ――“配線”の乱れは全てのヒトがもっているけれども、その乱れが十分に僅少であれば、体に強く負担がかかっているときであっても、“演算”に歪みが生じることはなく、そこまで十分に僅少でなければ、体に強く負担がかかっているときに限って、“演算“に歪みが生じてしまう。

 ということです。