――人は、自分の心の中を誰かに覗かれるのが、そんなに好きではない。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
こう述べると、
――そんなことはない。私は自分の心の中を覗かれてもよい。むしろ、覗いてくれたほうが嬉しい。
と反論をする向きもあろうかと思います。
もちろん――
自分が覗いてほしい部分だけが覗かれるぶんには、おそらく誰も気にしません。
が――
少し落ち着いて考えてみれば、すぐにわかるように――
自分の心の中というのは――
誰かに覗いてほしい部分ばかりではありませんよね。
むしろ――
大部分は誰にも覗いてほしくないものです。
少なくとも僕は、そうです。
皆さんは、いかがでしょうか。
……
……
――心の中を覗く
というのは――
もちろん、比喩表現です。
実際には、心の中を覗くことはできません。
そもそも、心は物理的な構造を備えているわけではないので――
そんなものの中を覗く――視覚情報として受容をする――ということは、物理的にも生理的にも不可能なのです。
では、
――心の中を覗く
という比喩表現は、どういう意味なのか。
……
……
それは、
――その“心”の持ち主の発言や行動の理由を推し量る。
という意味です。
……
……
どうやって推し量るのか――
……
……
様々な手段で推し量ります。
もちろん、発言や行動それ自体を十分に聴いたり視たりすることは重要です。
が――
それだけではなくて――
口調や表情、ちょっとした仕草や視線の動きなどを十分に捉えることも必要です。
そうした様子を細かに押さえた上で、あらためて――
その“心”の持ち主の発言や行動を聴いたり観たりすることで――
その人の発言や行動の理由を推し量ることができるようになるのですね。
厳密には――
たんに、
――推し量ることができるようになる。
という意味ではなくて、
――その“心”の持ち主が「ああ、自分は今、心の中を覗かれてしまった!」と感じてしまうくらいに正確に推し量ることができるようになる。
という意味です。