――心の中を覗く。
というのは、
――その“心”の持ち主が「ああ、自分は今、心の中を覗かれてしまった!」と感じてしまうくらいに正確に、その発言や行動の理由を推し量ることができるようになる。
という意味である――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
ちょっと持ってまわった述べ方になっていますが――
真意は単純です。
要するに、
――心の中を覗いた。
とか、
――心の中を覗けなかった。
とかいうことは――
客観的に――間主観的に――決まることではなくて――
その“覗かれた心”の持ち主の主観が決めることである――
ということです。
よって――
仮に、ある人が、ある精神科医のことを、
――あの先生は私の心の中が手にとるように覗けるみたいだ。
と評し、感嘆をしたとしても――
別の人が同じように感嘆をするとは限りません。
――この精神科医は、あの人の心の中は手にとるように覗けるらしいが、私の心の中は、まったく覗けないようだな。
ということが、よくある――
ということです。
全ての患者にとっての名医というのは――
外科とか内科とか産婦人科とか救急科とかいった身体科には数多くいることでしょう。
が――
精神科には、
(たぶん、いない)
と、僕は思っています。
つまり――
ある患者にとっての名医は、別の患者にとっての凡医になりうる――
ということです。
もっとも――
ある精神科医が、
――心の中を明瞭に覗けるようである。
という理由で、ただちに、
――名医
と評されることはありません。
精神科医の仕事は“心”の中を覗くことではありません。
患者が直面をしている健康の問題に何らかの解決の道筋をつけることが医師の仕事です。
精神科の医師も例外ではありません。