マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「心」の定義を真剣に試みて、わかること

 ――心

 の定義は――

 少なくとも21世紀序盤の現代においては――

 おそらく不可能です。

 

 なぜ、そういえるのか――

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 とりあえず、

 ――心

 の定義を真剣に試みてみれば――

 だいたいは、わかります。

 

 ……

 

 ……

 

 いかがでしょう?

 

 あなたなら――

 どのように、

 ――心

 の定義を試みますか。

 

 ……

 

 ……

 

 ほとんどの人は――

 次のような発想に依るでしょう。

 

 すなわち、

 ――「それは心だ」と誰かによって判断をされたものこそが心である。

 という発想です。

 

 もちろん――

 そのように判断をする人には心があるはずです。

 

 よって、

 ――「それは心だ」と誰かによって判断をされたものこそが心である。

 というのは、

 ――心によって「心だ」と判断をされたものが心である。

 という主張に等しいのです。

 

 つまり、

 ――心は心によってしか定義をされえない。

 ということですね。

 

 これは典型的な同語反復(tautology)といってよいでしょう。

 

 このように、曲がりなりにも定義を試みた結果、同語反復に陥ってしまうような観念は――

 たいていの場合は、

 ――定義不可能

 なのです。

 

 ……

 

 ……

 

 もう少し――

 根本的なことを確かめておきます。

 

 なぜ、

 ――心

 は、

 ――定義不可能

 なのか――

 

 ……

 

 ……

 

 おそらく、

 ――心

 に関する知識や理解が足らないからです。

 

 ――心

 について、よく知らないことやよく解(わか)らないことが、あまりにも多すぎるから――

 人は、

 ――心

 の定義ができないでいる――

 

 この先、

 ――心

 に関する知識や理解が蓄えられていけば――

 いずれ、

 ――心

 の定義はなされるでしょう。

 

 が――

 そのような定義には――

 今の僕らが思いもよらないような知識や理解が必要なのです。

 

 そのような知識や理解がない中で――

 無理に心の定義を試みると――

 どうしても、

 ――同語反復

 になってしまいます。

 

 同じように定義ができない観念に、

 ――生物

 や、

 ――命

 があります。

 

 こちらも問題の根は深いのです。