――無常
の対義語として、
――常住
がある――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
――常住
は、たんに、
――常
と、いわれることもあります。
――無常
ではないのですから、
――常
ですよね。
初期の仏教では、
――世の中の一切の事物は無常であるにもかかわらず、それら事物を人は常住とみなしがちである。その矛盾が人に苦しみや悩みをもたらしている。
と説かれていたそうです。
この教えを踏まえれば、
――苦しまず、悩まずに生きるには、世の中の一切の事物が無常であることを積極的に受け入れるのがよい。
との結論になります。
それゆえに、
――無常
の観念は大切なのですね。
もちろん――
仏教の主張というのは、複雑多岐であり、
――無常
という観念のみで全ての主張が説かれているわけではないのですが――
それでも――
あえて仏教の主張を一言にまとめるとしたら――
(「無常」であろう)
と僕は思っています。
その次に大切なのは、
――人は、うっかり常住を思い描きがちである。
という事実――経験則――でしょう。
人が、少しでも苦しまず、少しでも悩まずに生きていくには、
――世の中の一切が無常である。
との真理を弁えるだけでは不十分であり、
――人の心は、どうしても常住に囚われる。
という性質を弁えることも必要なのです。
……
……
今回のロシア政府によるウクライナ戦争の勃発に際して――
西欧の国々の最高指導者たちが、
――ロシア政府の最高指導者は人が変わってしまった。3年前とは別人だ。
と述懐をして嘆いていたと報じられていました。
仏教の主張に基づけば、
――そんなことは当たり前――
となります。
――世の中の一切は無常である。現在のロシア政府の最高指導者の人となりも、また無常である。しかし、そのことが、人には容易にはわからない。ロシア政府の最高指導者の人となりをつい常住とみなしてしまう。それが人の癖である。
そういうことです。