――ロシア政府の最高指導者に正しい情報が届けられていない。
という分析は――
今回のロシア政府によるウクライナ侵攻の非合理性に説明をつけることができる――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
が――
こうした分析は、
――危険だ。
と捉える見方もあるのだそうです。
その指摘に接し、
(たしかに……)
と思いました。
どういうことか――
……
……
現在のロシア政府は――
少なくとも国益の保持という観点からは、あきらかに非合理的といえる決断を下し続けることで、国益を実際に大きく損ね続けているように――
傍目にはみえます。
その理由として、
――ロシア政府の最高指導者に正しい情報が届けられていないから――
というのを挙げてしまうと――
その瞬間、他の理由の可能性が被覆をされてしまいます。
例えば、
――ロシア政府の最高指導者には正しい情報が届けられているのだが、その最高指導者は、実は、国益を大きく損ね続けることを覚悟の上で、少なくとも国益の保持とは無縁の観点から、合理的といえる決断を下し続けているから――
というような理由の可能性が捨てられてしまう――
――危険だ。
というのは、
――このような理由の可能性を本当に捨ててしまってよいのか。
という危惧なのです。
つまり――
もし、ロシア政府の最高指導者が、少なくとも国益の保持とは無縁の観点から、合理的といえる決断を下し続けているとすれば――
その観点の中身を明らかにしておく必要があるはずですが――
そうであるにもかかわらず、不用意に、
――ロシア政府の最高指導者に正しい情報が届けられていない。
という理由を考えてしまうと――
その“少なくとも国益の保持とは無縁の観点”の中身を明らかにする機会が永遠に失われしまう――
ということです。
その機会が永遠に失われてしまうと――
少なくともロシアの隣国の人々にとっては――
今回のウクライナの人々と同じような災禍に見舞われる危険性を低めることが、きわめて難しくなります。
そして――
その“ロシアの隣国”の中に日本も含まれることを――
僕らは忘れるわけにはいきません。