マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

同じような失敗を繰り返す愛おしさ

 ――人は、同じことを同じように繰り返していれば、同じような失敗を繰り返してしまう。

 ということを、おとといの『道草日記』で述べました。

 

 そんなふうに捉えると――

 同じような失敗を同じように性懲りもなく繰り返してしまう人も、何だか愛おしく感じられはしないか――

 とも述べました。

 

 ここでいう「失敗」とは、

 ――再起可能の失敗

 のことです。

 

 もちろん――

 ときには、

 ――自分以外の命が失われる“再起不能の失敗”

 も含まれるでしょうが、

 ――自分自身の命が失われる“再起不能の失敗”

 は含まれえません――自分自身の命が失われたら、どんなことも繰り返せませんので――

 

 ……

 

 ……

 

 一方で――

 

 きのうの『道草日記』では、

 ――すべての動物は、いつもは同じことを繰り返していて、いざというときに限り、学習によって何か新しいことを試し、生存の確率を高めている。

 ということを述べました。

 

 この「すべての動物」には当然ながらヒト――生物種としての人――が含まれます。

 

 よって――

 きのうの『道草日記』で述べたことと、おとといの『道草日記』で述べたこととを考え併せると、

 ――同じような“再起可能の失敗”を繰り返しているヒトは、動物として極めて自然な状態にある。

 といえます。

 

 ただし、

 ――周囲の環境が変わらない状況においては――

 という条件付きです。

 

 周囲の環境が変わってくれば――

 いつも繰り返していた同じような“再起可能の失敗”も、自分自身の命が失われる“再起不能の失敗”へと取って代わられるかもしれないからです。

 

 そのことに気づかずに――あるいは、気づけずに――

 なおも同じような“再起可能の失敗”を繰り返そうとして、ついに自分自身の命が失われる“再起不能の失敗”に陥ってしまうヒトを、

 ――動物として極めて自然な状態にある。

 とは、ちょっといえないでしょう。

 

 いや――

 

 ひょっとすると――

 思いっきり観方を変えたら――

 それも、あるいは「自然な状態」といえるのかもしれませんが――

 

 その「自然な状態」というのは――

 あくまで、

 ――この世界から「自然淘汰」という名の退場を強いられる。

 という意味での「自然な状態」なのです。

 

 おとといの『道草日記』で、

 ――同じような失敗を同じように性懲りもなく繰り返してしまう人も、何だか愛おしく感じられはしないか。

 と述べたのは――

 そうした着想によります。