短編物語集『堤(つつみ)中納言物語』の一編、
――虫愛づる姫君
の物語では――
作者が、自然科学の観点からの思考や行動を主人公・虫好きの姫に殆どさせなかったために――
主人公・虫好きの姫の“虫好き”の性質の本領を十分に引き出せえなかった――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
――虫愛づる姫君
の作者は、わかっていませんから――
当然ながら、その作者が、どの時代を生きていたのかも、よくわかってはいませんが――
9月23日の『道草日記』で述べた通り――
どんなに時代が現代に近くても、
――せいぜい江戸期まで――
と考えられています。
つまり、
――虫愛づる姫君
の作者は、平安後期から江戸期までの、いずれかの時代を生きていたはずなのです。
明治以後の時代を知らない作家に、
――自然科学の観点
を求めるのは――
酷かもしれません。
が、
(江戸期以前の作家にとっても、物語に自然科学の観点をもちこむことは、実は、そんなに離れ業というわけではない)
と僕は思っています。
実際に、
――虫愛づる姫君
の作者は、
――自然科学の観点
に近い観点を、主人公・虫好きの姫に語らせているのです。
――本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ。
という台詞が、それです。
現代語に直訳をすると、
――本地を探ることこそ、心ばえを面白くする。
といったところでしょうか。
――本地
というのは、
――物事に備わっている性質や本性
といった意味です。
――物事の本来の素地
といってもよい――
――心ばえ
というのは、
――人の心が周囲に働きかける様子
を指します。
よって、
――本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ
は、
――物事の本来の素地を探ろうとすればするほどに、人の心は自然と浮き立つものである。
くらいの意味です。
この台詞は――
現代の自然科学者たちとも十分に共有をされうる理念を表しています。