人の知能にとっては、
――自然は単純な仕組みの複雑な組み合わせ――
であるのに対し――
人工知能にとっては、
――自然は複雑でも単純でもない仕組みの膨大な組み合わせ――
であるのではないか――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
もちろん――
人工知能を用いて自然界の事物の振る舞いを探ろうとするのは、あくまでも人の知能であるわけですから――
結局のところは――
人の知能にとっても、
――自然は複雑でも単純でもない仕組みの膨大な組み合わせ――
であるのですね。
そして、
――複雑でも単純でもない仕組み
というのは――
要するに、たんに、
――仕組み
という意味ですから――
人の知能にとって、
――自然は仕組みの膨大な組み合わせに過ぎない。
ということになります。
おとといの『道草日記』で――
僕は、
――「複雑」という概念は存在をしうるのか。
と問いました。
人工知能が、自然界の事物の振る舞いについて、人の知能に与える知見を踏まえるならば、
――もはや「複雑」という概念は存在をしえない。
といえます。
――「複雑」が存在をしえないのであるから、「単純」も存在をしえない。存在をしうるのは「膨大な組み合わせ」か「僅少の組み合わせ」かだけである。
と――
……
……
あるいは――
こういう述べ方もできるでしょう。
――「複雑」や「単純」といった概念は、人の知能の情報処理能力が、人工知能の情報処理能力に比べ、格段に低いことに伴う一種の幻影である。
と――
――その幻影は、格段に高い人工知能の情報処理能力を人の知能が巧みに活かしていくことによって消し去りうるのである。
と――