マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

知能と本能と――「合目的性」と「定目的性」とで説明をする

 ――知能

 とは、

 ――営みや振る舞いに演繹や帰納の手続きが感じられること

 と定義ができるのではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ここでいう、

 ――演繹

 とは、

 ――論理に基づき、より普遍的な前提から、より個別的な結論の集合を導くこと

 であり、

 ――帰納

 とは、

 ――論理に基づき、より個別的な前提の集合から、より普遍的な結論を導くこと

 である――

 と、きのうの『道草日記』では述べたのですが――

 

 ちょっと、わかりにくいですよね。

 

 もう少し砕けた表現を用いるならば――

 こうです。

 

 ――演繹

 とは、

 ――営みや振る舞いに合目的性が感じられること

 であり、

 ――帰納

 とは、

 ――営みや振る舞いに“定目的性”が感じられること

 である――

 

 ……

 

 ……

 

 ――合目的性

 というのは、

 ――何らかの目的に合致をしているようにみえること

 です。

 

 一方、

 ――定目的性

 というのは――

 たった今、僕が捻り出した造語でして、

 ――何らかの目的が設定をされたようにみえること

 です。

 

 つまり、

 ――「知能」とは「営みや振る舞いに演繹や帰納の手続きが感じられること」である。

 という命題は、

 ――「知能」とは「目的の設定が可能であり、設定がされた目的に合致をしている営みや振る舞いが可能であること」である。

 という命題と、ほぼ同じです。

 

 ……

 

 ……

 

 ちなみに――

 きのうの『道草日記』では、

 ――知能は演繹も帰納も熟(こな)せるが、知能の特殊な様態である本能は演繹のみしか熟せない。

 と述べましたが――

 

 これを「合目的性」や「定目的性」を用いて書き換えると――

 次のように成ります。

 

 ――知能は合目的性や“定目的性”の感じられる営みや振る舞いを可能とするが、本能は合目的性の感じられる営みや振る舞いのみを可能とする。