――知能は合目的性や“定目的性”の感じられる営みや振る舞いを可能とするが、本能は合目的性の感じられる営みや振る舞いのみを可能とする。
と、きのうの『道草日記』で述べました。
ここでいう、
――合目的性
とは、
――何らかの目的に合致をしているようにみえること
という意味で、
――定目的性
とは、
――何らかの目的が設定をされたようにみえること
という意味です。
ここで――
1つの問題に気付きます。
――合目的性や“定目的性”の感じられる営みや振る舞い――
というときに――
その合目的性や“定目的性”を感じるのは誰なのか――
という問題です。
……
……
当然ながら、
――知能を備えた主観
あるいは、
――知能それ自体
が感じます。
つまり、
――知能は合目的性や“定目的性”の感じられる営みや振る舞いを可能とするが、本能は合目的性の感じられる営みや振る舞いのみを可能とする。
という命題は――
突き詰めて考えていくと、
――「知能」や「本能」は、知能にとって「知能がある」あるいは「本能がある」と感じられること
という意味になるのですね。
つまり、
――知能は合目的性や“定目的性”の感じられる営みや振る舞いを可能とするが、本能は合目的性の感じられる営みや振る舞いのみを可能とする。
という命題は、
――知能
や、
――本能
の定義というよりは、
――「知能」と「本能」との違い
の指摘というほうが適切です。
――知能
や、
――本能
という概念の本質については――
そんなに踏み込んでいない――というより、踏み込めていない――
その意味で、
――知能は合目的性や“定目的性”の感じられる営みや振る舞いを可能とするが、本能は合目的性の感じられる営みや振る舞いのみを可能とする。
という命題は、
――知能
や、
――本能
の定義としては、
(まったく物足りない)
と、いわねばなりません。