――“話しあいに強い人”は数が少ないので、その少ない人たちをいかに見きわめ、話しあいの代表者に選びだすかが、ほとんどの民主主義(みんしゅしゅぎ)の国で大問題になっている。
と、きのう、のべました。
ほとんどの民主主義の国では、
――選挙
という方法がとられています。
これは――
みんなの投票によって話しあいの代表者を選ぶ方法です。
どのように選ぶのか――
まずは――
話しあいの代表者になりたいと思う人たちを集めます。
次に――
その人たちに、みんなの前で、実際(じっさい)に話をさせたり、話しあいをさせたりします。
そして――
だれが、
――話しあいに強そうな人
かを、みんなの投票で決めるのです。
この、
――選挙
という方法には、一見、何の問題もなさそうですが――
その、
――だれが“話しあいに強そうな人”か。
を決める――
というところに問題があるのですね。
話しあいの代表者になりたいと思っている人たちに、実際に話をさせたり、話しあいをさせたりしても――
だれが“話しあいに強そうな人”かは、よくわからないのです。
とても上手に話をするからといって、
――話しあいに強い人
とは、かぎりません。
――話をする。
と、
――話しあいをする。
とは別なのです。
――では、話ではなく、話しあいをさせればよい。
というわけで――
みんなの前で、実際に話しあいをさせることがあるのですが――
そのような話しあいは、たいていは、話しあいの代表者になりたいと思っている人たちどうしで行われるので――
あまり、わかりあおうとしないのですね。
――話しあいの代表者には、私こそがふさわしい。他はふさわしくない。
と、たがいに、いいあうことになるので――
わかりあえるわけがないのです。
そのように、わかりあえるわけがない話しあいをみて、
――だれが“話しあいに強そうな人”か
を見きわめていくことは、かなり難(むずか)しいことです。
(ほとんど無理だろう)
と、ぼくは思っています。
5月17日にのべたように、
――話しあいに強い人
というのは、
――話しあいの相手と多くのことがわかりあえる人
という意味であるからです。
『10 歳の頃の貴方へ――』