マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

10 才のころのぼくが気づいていたこと

 10 才のころのぼくは、

 ――書き言葉を使って感動をもたらす。

 ということに強い関心をもっていたにもかかわらず――

 そのことには、まったく気づけなくて、

 ――人の心の捉(とら)え方

 という暗黙知(あんもくち)を手に入れるための努力をはじめることはなかった――

 と、きのう、のべました。

 

 代わりに何をしていたかというと、

 ――世の中の捉え方

 という暗黙知を手に入れるための努力をしていました。

 

 簡単(かんたん)にいうと、

 ――学校の勉強

 をがんばっていたのですね。

 

 より正しくいえば、

 ――“学校の勉強”の周辺の勉強

 をがんばっていました。

 

 ――“学校の勉強”の周辺の勉強

 というのは、

 ――“学校の勉強”と関係はあるけれども、とくに学校では求められていなかった勉強

 ということです。

 

 ――学校の勉強

 それ自体は――

 今にして思えば――

 そんなに多くはやっていませんでした――というより、そんなに多くはできなかった――

 

 ――学校の勉強

 に――

 そんなに強い関心をもてなかったからです。

 

 代わりに強い関心をもてたのが――

 物理や歴史(れきし)のことでした。

 

 物理を通して自然を捉えるということ――

 あるいは――

 歴史を通して社会を捉えるということ――

 

 そういったことに――

 10 才のころのぼくは強い関心をもっていました。

 

 うらをかえすと――

 そのころのぼくは――

 例えば、生物を通して自然を捉えるということができませんでした。

 

 あるいは、経済(けいざい)を通して社会を捉えるということができませんでした。

 

 あくまでも――

 物理を通して自然を捉えるということであり――

 歴史を通して社会を捉えるということであったのです。

 

 ですから――

 そのころのぼくの“世の中の捉え方”には、だいぶ偏(かたよ)りがあったはずです。

 

 偏りはありましたが――

 おかげさまで――

 17 才になるころには――

 それなりに自信をもって世の中を捉えられるようになっていました。

 

 ……

 

 ……

 

 なぜ自信をもって世の中を捉えられるようになっていたのか――

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 とりもなおさず――

 10 才のころのぼくが、

 ――物理や歴史を通して世の中を捉える。

 ということに強い関心をもっていて――

 しかも、そのことに自分で気づいていたからです。

 

 きのう、のべたように――

 10 才のころのぼくは、

 ――書き言葉を使って感動をもたらす。

 ということに強い関心をもっていたことには、気づけなかったわけですが、

 ――物理や歴史を通して世の中を捉える。

 ということに強い関心をもっていたことには、気づけたのですね。

 

 気づけたからこそ、努力ができました。

 

 そして――

 努力ができたからこそ、自信をもつことができたのです――

 

 その“自信”が正当であったかどうかは、さておいて――

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』