マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

その変化は、ごくわずかであったはず――

 15 才のころのぼくは――

 自分が通っている中学校の先生方による手書きのテストで高い点数をとっても、

 ――やった! 世の中が捉(とら)えられた!

 とは思いこまなかったけれども――

 自分が住んでいる街の教材会社による大量印刷のテストで高い点数をとったら、

 ――やった! 世の中が捉えられた!

 と思いこんでしまった――

 と、きのう、のべました。

 

 なぜ――

 このような思いこみをしてしまったのかといえば――

 

 おそらく――

 自分の通っている中学校の先生方による手書きのテストでは、出題者の顔がよくわかったのに対して――

 自分が住んでいる街の教材会社による大量印刷のテストでは、出題者の顔が全くわからなかったからです。

 

 きっと――

 その顔が全くわからない“教材会社の出題者”のことを、

 ――神さま

 か何かと思いこんだのですね。

 

 (ぼくは“神さま”が出題したテストでも高い点数がとれた。だから、世の中のことが、すっかりわかるようになったんだ!)

 というわけです。

 

 もちろん、

 ――顔が全くわからない“教材会社の出題者”

 というのは、

 ――顔がよくわかる“中学校の出題者”

 というのと、根本的には何も変わりません。

 

 どちらも同じ人――知識や理解、能力に限りのある一人の人――に、すぎません。

 

 よって――

 その“中学校の出題者”のテストで高い点数をとっても、

 ――やった! 世の中が捉えられた!

 と思いこまなかったのであれば――

 その“教材会社の出題者”のテストで高い点数をとっても、やはり、

 ――やった! 世の中が捉えられた!

 とは思いこまなかったはずです。

 

 が――

 実際(じっさい)には――

 思いこんでしまったのですね。

 

 顔がよくわかる出題者のテストで高い点数をとったときの感覚から――

 顔が全くわからない出題者のテストで高い点数をとったときの感覚へ――

 その変化は、ごくわずかであったはずです。

 

 にもかかわらず――

 ぼくはカンちがいをしてしまいました。

 

 ……

 

 ……

 

 本当に――

 おそろしいカンちがいであると思います。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』