顔がよくわかる出題者のテストだけで高い点数をとっていたときの感覚と――
顔が全くわからない出題者のテストでも高い点数をとれるようになったときの感覚と――
を比べたら、その感覚の変化は、ごくわずかであったはずであるけれども――
そのわずかな感覚の変化を覚えたことによって、ぼくは、
――“世の中の捉(とら)え方”という暗黙知(あんもくち)
を手に入れることができたと、カンちがいをしてしまった、と――
きのう、のべました。
では――
実際(じっさい)に、
――“世の中の捉え方”という暗黙知
を手に入れることができたと思ってよいのは――
どういう感覚の変化を覚えたときなのでしょうか。
……
……
この問いに答えるのは、実は、なかなかに大変でして――
おそらく――
10 人がいたら、10 通りの答えがあります。
そうした中で――
あえて――
ぼく自身の答えをのべますと――
それは、
――自分以外の人たちが手に入れている“世の中の捉え方”が数多くわかるようになっていて、かつ、それら“世の中の捉え方”の一つひとつは、自分が手に入れている“世の中の捉え方”と同じではないということが、よくわかるようになったとき――
です。
その上で、さらに、
――自分が手に入れているものと同じではない“世の中の捉え方”を手に入れている人たちの一人ひとりに対して、きちんと敬意(けいい)をはらえるようになったとき――
ということを付け加えても、よいでしょう。
そのようになったときに初めて――
あなたは、たしかに、
――世の中の捉え方
という暗黙知を手に入れることができた、といってよい、と――
ぼくは考えています。
このように考えていけば――
――世の中の捉え方
という暗黙知を手に入れることと、
――学校のテストで高い点数をとりつづける。
という努力とが、いかに無関係であるのか、ということが――
よくわかります。
――世の中の捉え方
というのは、みんな少し、ちがうのです。
ときには、大きく、ちがいます。
そして――
あなたが手に入れている“世の中の捉え方”が常に正しいというわけではない――むしろ、正しくないことのほうが多いかもしれない――それでも、それが、あなた自身の“世の中の捉え方”であると自覚をする必要がある――
そういう覚悟(かくご)も含(ふく)めて、
――世の中の捉え方
である――
と、ぼくは考えています。
『10 歳の頃の貴方へ――』