マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

本能寺(1)

 人の生涯を顧みるには――

 その最期に着目をすればよい。

 

 例えば、

 ――織田(おだ)信長(のぶなが)

 の生涯を顧みるには――

 

 ――本能寺(ほんのうじ)の変

 に着目をする。

 

 天正10年(1582年)6月2日、未明――

 信長の重臣の一人であった明智(あけち)光秀(みつひで)が、総勢 13,000 の兵を率い、密かに洛中へ向った。

 

 光秀は――

 主君・信長が洛中の大寺・本能寺に僅かな手勢で泊っていることを知っていた。

 

 この時すでに――

 光秀は信長の殺害以外は考えていなかったと思われる。

 

 が――

 配下の者らは違った。

 

 ――さては、三河(みかわ)殿か。

 

 当夜、洛中には、三河――現在の愛知・東部――に本拠を置く信長の盟友・徳川(とくがわ)家康(いえやす)がいるとみられていた。

 

 その家康の首を、信長の命により、挙げに行くのだ、と――

 光秀・麾下の将兵らはみた。

 

 実際には――

 当の信長の首を挙げに行く――

 

 ……

 

 ……

 

 先鋒は、

 ――斎藤(さいとう)利三(としみつ)

 という重臣――光秀の重臣――であった。

 

 利三は将として手練れであった。

 

 万が一にも討ち漏らすことがないように――

 事に及ぶ直前まで旗指物を掲げるなどの示威行為を避け――

 将兵らが隊列を組むことには拘らず、各自で思い思いの路を行かせ、信長のいる本能寺を目指したという。

 

 また――

 織田宗家の息の根を止める算段も忘れなかった。

 

 近隣の大寺には、信長の嫡子・信忠(のぶただ)が、やはり僅かな兵と共に泊まっていた。

 その逃げ道も、利三は抜かりなく塞いだのである――少なくとも、塞いだように思わせた――

 

 近郊への脱出を諦めた信忠は――

 1,000 から 1,500 の兵で二条(にじょう)新御所(しんごしょ)の館に籠る。

 

 これら全てが利三の差配というわけではなかろうが――

 彼の働きがなければ歴史は違ったものになっていた。

 

 『随に――』