僕は、子供の頃から、
――ホドホドにやる。
ということが、できなかった。
やるからには徹底的にやり、やらぬからには徹底的にやらぬ――
そういう性質を、僕は幼い頃から培ってきた。
そうでなければガマンならなかった――というのが正しい。
さすがに30歳を過ぎたあたりから、
(これは、まあホドホドにしとくか……)
と思えることも出てきたが――
それでも、
(これは!)
と思ったことは今も、ホドホドにはできぬ。
その最たるものが小説書きである。
あるいは、物語作りである。
僕にとって「小説を書く」とは「物語を作る」ということに等しい。
僕は、自然発生的な物語を好む。
よって、しばしば、
――物語を紡ぐ。
という。
この物語紡ぎだけはホドホドにできぬ。
ホドホドにしようにも、結局そうはならぬ。
たぶん、終生、ホドホドにはできぬであろう。
だからなのか――
物語をホドホドに紡ぐ人をみかけると、ワケもなく腹が立つ。
そうやって紡がれた物語をホドホドに味わう人がいれば、なおのこと腹が立つ。
けだし、この怒りは、同じ価値観を共有せぬ人々にとっては、かなり理不尽なものだ。
だから、物語をホドホドに扱おうとする人からは離れたほうがよいとも思う。
もちろん――
全ての物語について、ホドホドに扱ってはならぬ、と主張するつもりはない。
そんなことはムリだ。
かくいう僕だって、ホドホドにしか扱えぬ物語はゴマンとある。
が――
ホドホドにしか扱えぬのなら、せめて大っぴらには扱わぬことだ。
それが、物語への最低限の礼儀である。
奇妙なのは――
こうした物語観が、かなり珍しいものであるらしい、ということだ。
子供の頃の僕は、こうした物語観が万人に共通だと信じていた。
(だって、物語って、そんな風に扱わなかったら、つまんないじゃん!)
である。
ところが、実際は違うらしい。
僕の経験によれば――
そうした物語観は珍しい部類に入るようである。多くの人が、物語をホドホドに扱っているようにみえる。
それも、公衆の面前で――
「公衆の面前」というのは――
新聞の書評であったり、ネットのブログであったり、友人同士の会話であったり――その階層や公共性は様々であるけれども――
(ホドホドに扱うなら、せめて陰でコソコソやれよ)
と、僕などは思う。