小説やマンガやTVドラマや映画といった媒体で、いわゆる、
――物語
を伝えるときに――
ぜひ留意してほしいと僕が願うことは、
――できるだけ不埒なことを扱う。
ということです。
「不埒なこと」とは――
不道徳なこと、非倫理的なこと、下世話なこと、卑俗なこと、頽廃的なことなどの総称です。
なぜ不埒なことを物語で扱うべきなのか。
それは、不埒なことは、物語くらいでしか存分には扱えないからです。
とりあえず――
およそ人の知的な営みを、思いつくままに大雑把に挙げていくと――
学問、思想、宗教、教育、医療、福祉、政治、司法、起業、経営、開発、娯楽、芸術、スポーツ、ジャーナリズム――
などとなるでしょうが――
これら営みの中で、物語が中心的な役割を果たしうるのは、おそらく、娯楽や芸術でしょう。
もちろん――
それ以外の領域でも、物語は一定の役割を果たしうるのですが――
決して中心的な役割ではありません。
仮に、政治の領域で、物語が中心的な役割を果たしてしまうと――
それは、かなり危険な事態です――例えば、国家政府が戦争を始めたり、犯罪組織が戦闘を始めたり――
が――
娯楽や芸術の領域では、物語が中心的な役割を果たすことは、きわめて自然です。
よって――
物語では、不埒なことを積極的に扱うほうがよいと、僕は思うのです――
そうでないと、
(もったいない)
と――
娯楽や芸術には、古来より、不埒なことをも柔軟に扱わしむる懐の深さがあります。
他方――
これとは別に、もう一つ――
不埒なことを物語で扱うほうがよい理由がありまして――
それは、
――不埒なことが「不埒」であるためには、けっこう込み入った説明がいる。
ということなのです。
それも、かなり系統だった説明がいるのですね。
人は、不埒なことを「不埒」と認識するのに、どうしても物語の三要素が必要です。
1)どういう人物が
2)どういう舞台で
3)どういう事象を引き起こしたか
という三要素が――
しかも、ただ3つ揃っているだけではだめでして――
それぞれが連関よく揃っていることが必要なのですね。
例えば、
1)立派な体躯の大人が
2)夜の高速道路で
3)素っ裸になる
なら、十分に「不埒なこと」ですが――
もし、「1)立派な体躯の大人」の代わりに「1)認知症状態の老人」であったり――
もし、「2)夜の高速道路」の代わりに「2)夕方の下町の銭湯」であったり――
もし、「3)素っ裸になる」の代わりに「3)土方作業に勤しむ」であったりすれば――
それぞれ、
1)認知症状態の老人が
2)夜の高速道路で
3)素っ裸になる
1)立派な体躯の大人が
2)夕方の下町の銭湯で
3)素っ裸になる
1)立派な体躯の大人が
2)夜の高速道路で
3)土方作業に勤しむ
となって――
ぜんぜん不埒なことではなくなるわけです。
不埒なことが「不埒」であるためには、それなりに精緻な物語の構造が必要なのですね。
つまり――
物語を抜きにしては、とうてい「不埒」ではありえないのです。