報道などによると――
政府は再来年からの裁判員制度の導入を目指している。
これを踏まえ、最高裁判所は、今日、裁判員制度の具体的な規則などを、定めたそうだ。
例えば、裁判員の日当は1万円らしい。
それが安いとか高いとかで、色々と議論になっている。
*
政府は広報に躍起だが――
国民の自覚は、今ひとつだ。
マスコミのアンケート調査などによれば――
裁判員制度に前向きな国民は少数派のようである。
由のないことではない。
裁判員制度については、わからないことが多すぎるのである。
第一に、
――なぜ今、裁判員制度なのか?
が伝わってこない。
政府のホームページなどをみると、裁判員制度の導入は、司法制度改革の一環だそうだ。
これまでの、お上まかせの司法制度を改め、国民に身近なものに変え、国民が自らの責任を自覚し、司法に主体的に関わっていく素地を築くのが、狙いだという。
そこまではよい。
が、そうした素地を築くのに、なぜ裁判員制度なのか?
この制度が必須であるようには、僕には、どうしても思えない。
必須なのは、裁判所の仕事の査定であろう。
例えば、判事たちの仕事ぶりを、きちんと査定する――
そういうことである。
司法に関する国民の主体的な役割は、司法権の統制ないし抑制だ。
決して、その行使ではない。
国民が、不十分な知識や未熟な技量のままで、何となく裁判に参加するよりは――
判事たちの仕事の中身を理解し、それに正当な評価を下すことのほうが、遥かに重要である。
問題のある判事を罷免することも、ときには必要であろう。
問題のある議員を落選させるのと同じ原理である。
司法制度改革が大切なのは、いうまでもない。
司法にかぎらず、およそ制度というものは、常に時代にあっていることが求められる。
裁判員制度が時代にあっているかどうかは、疑問だ。
それよりは――
基本に帰ったら、どうだろう。
国民主権や三権分立の原則に照らせば――
現行の司法制度に真っ先に求められるべきは、国民による司法権の統制ないし抑制と、それを実現させるシステムの強化である。
そのために、司法の基本を学び、司法の理念を学び、司法の実際を学ぶことが、僕ら国民たちに広く求められている。
その一環としての裁判員制度ならば、理解はできる。
が――
政府のホームページなどをみるかぎり――
そのような覚悟は感じられない。