マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

学問を有用に

 学問の限界というのは、そのまま――
 事実の確実性や論理の蓋然性の限界でもある。

 世の中の出来事の多くは、事実か否かの判断が難しい――
 また、世の中の出来事の多くは、すぐには論理が通用しない。

 だから――
 学問を知らない者のほうが、よく知っている者よりも、世の中の出来事の多くに、巧く対応できる――
 ということがある。

 例えば、古代中国で――
 自分の名前も含めて、たった10字程度しか知らなかった武将が――
 自軍の窮地に際し、目覚ましい活躍をみせた――
 という例も、あるそうである。

 では――
 学問とは、無用の長物なのであろうか。

 僕は、自分の人生の10年間ほどを大学に費やし、学問に触れた。
 そのように学んだ者としては、

 ――学問は無用である!

 とは、なかなか断言したくない。

 学問にも益はある――
 と主張したい。

 が――
 これだけはいえる。

 学問だけしか知らぬ者にとっては――
 学問は無用の長物に成り下がる。

 例えば――
 日頃、自家用車でしか行動せぬ夫が、徒歩5分のスーパーに買い物にいく妻に向かって、

 ――駐車場がないから――

 という口実だけで、一緒に買い物に行きたがらない――
 というような事例に相当する。

 この場合――
 自家用車は、少なくとも妻にとっては、無用の長物であろう。

 だから――
 もし、学問を有用にしたいのなら――
 学問以外のことにも、十分に精通せねばならない。

 これは、学問を志す全ての者が注意するべきことである。