マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「科学的○○論」の“知的欺瞞”

 学問的素養の深い人が、自然科学の意義や有用性に懐疑的である、という例は――
 そんなに珍しくありません。

 深い教養を身につけているにも関わらず、こと自然科学については、案外と素朴に、

 ――うさん臭い。

 と感じているらしい人たちは――
 決して少なくないのですね。

(なんでなんだろう?)
 と――
 ずっと不思議に思っていたのですが――

 きょう――
 ふと思い当たったことがあります。

 それは、

 ――世の中には、安易な「科学的○○論」が、けっこう多いからではないか。

 ということです。

 例えば、

  科学的政策論

  科学的経営論

  科学的芸術論

  科学的恋愛論

 などなど――

 これらの「科学的」は、多くの場合、「自然科学的」ではなく、「学問的」という意味です。

「学問」とは――
 世の中の事物について、事実を認定し、論理を適用することで――
 何らかの原理を発見し、抽出し、記述する営みです。

 そして、そのような営みのうち――
 自然界に起こる現象を詳細にみること(観察)や、あえて自然界に介入して応答をみること(実験)が重視される営みについては、「自然科学」と呼ばれます。

 つまり――
 科学を自然科学たらしめるのは観察や実験の実践であり――
 これらの実践を意識することなく、ただ事実の認定や論理の構築に終始している学問は、学問ではあっても、自然科学ではありません。

 よって――
 例えば、「科学的恋愛論」といったときに――
 もし、この「科学的」が真に「自然科学的」であるならば――
 恋愛について、どのような観察や実験が想定されているのかが、明確に伝わらなければなりません。

 例えば――
 ○○の条件を満たす恋愛関係は○○であると予想され――
 この予想の妥当性を検証するには、○○の観察が有効である――あるいは、○○の実験が適切である――
 などなど――

 もし、そのような観察や実験をとくに想定しないのであれば、「科学的恋愛論」との呼称は誤解のもとであり――
 ただちに「学問的恋愛論」に改めなければなりません。

 とはいえ――
 現実には、世の中の「科学的○○論」の多くが「学問的○○論」であり――
 観察や実験は、とくに想定されている様子がないのですね。

 あたかも、

 ――自然科学や科学技術の進展が目覚まし今日、とりあえず「科学的」といっておけば箔がつくのでは……。

 との浅薄な考えがあるようです。

 このような“知的欺瞞”を毛嫌いする人たちが「科学的○○論」をうさん臭く思うのは当然のことであり――
 勢いあまって自然科学をも、うさん臭く思ってしまうのは――
 ある程度は仕方がないといえるでしょう。