ときどき、
――世の中に正しい人などいない。
という人があります――まるで鬼の首でも取ったかのように――
(そんなの、当たり前だろう)
と――
僕は思っています。
常に正しい判断をし、正しい発言をし、正しい行動をする――
そんな人が、もし、いたとしたら――
その人は、たぶん人ではありません――おそらく、生き物ですら、ないでしょう。
問題となるのは――
正しい人がいるかいないかではなくて――
正しいことがあるかないかでしょう。
ここでいう「正しさ」とは、道義的な正しさではありません。
論理的な正しさです。
そのように判断をすることや発言をすること、行動をすることが、論理的に正しいと、はたして、いえるかどうか――
常識的に考えれば――
論理の正誤の判断は、個人の信条や性向などを越えて、厳に一致しうるはずのものですから――
論理的な正しさには普遍性があり――
それゆえに、世の中には、「正しい人」は実在しなくても、「正しいこと」は存在する――
と考えたくなるのですが――
こうした考えは、学術研究者の社会ならともかく、実社会では通用しません。
なぜならば――
実社会においては――
ある人によって「正しい」と判断されたことが、別のある人によって「正しくない」と判断されることは、決して珍しくないからです。
もちろん――
ここでいう「正しさ」とは、論理的な正しさであって、道義的な正しさではありません。
つまり――
すべての人々によって共有されうる正しさというのは、論理的な正しさでさえ、幻想にすぎないのだ――
という話になります。
これは、なぜなのか――
一つは――
人が論理を必ずしも常に正しく扱えるとは限らない――
ということです。
誤って論理を用いることがある――どんな論客でも、その論客が人である限り、過失はありえます。
もう一つは――
人は、論理を用いる前に、論理の構築の前提となる仮定や事実認定を行っている――
ということです。
この前提には、その人の信条や性向が、必ず表われます。
そして――
前提が違えば、論理が導き出す結論も、自ずと違ってくる――
つまり――
相異なる前提を用いる者同士では、論理的な正しさでさえ、決して一致することはない――
ということです。
世の中に正しい人などいません。
が――
それは、少しでも真面目に物を考えたことがある人なら、容易に気づきうることです――鬼の首でもとったかのように主張してよいことではありません。
どうしても、その趣旨のことを主張したいのなら、
――世の中のすべての人たちにとって正しいことなどない。
と主張したらよいでしょう。
もちろん――
そのように主張すれば――
その主張でさえも、世の中のすべての人たちにとって正しいことではなくなるわけですが――