マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

審判は常に正しいわけではない

 ――審判が正しいから仕方がない。

 と、エースはいった。

 昨日の甲子園大会の決勝戦で――
 8回裏に1死満塁から押し出しの四球を与えた投手の談話である。

 カウント1-3からの5球目――
 広陵のエース野村投手の真ん中低めのストレートを――
 桂球審はボールと判定――
 佐賀北に押し出しの1点が加わった。

 この直後、野村投手は逆転満塁本塁打を浴びる。
 佐賀北広陵を1点差で振り切った試合であった。

 敗れた広陵の中井監督は、怒りを隠さない。

 ――あの球審の判定はひどすぎる。投手はド真ん中に投げるしかない。

 というような談話が報じられている。

 審判への批判はスポーツの根幹を揺るがす。
 
 ――それはわかっている。

 と、中井監督はいう。

 ――が、自分は教育者だ。教え子たちのために、いうべきことはいう。いわないと何も変わらない。

 と――

 残念ながら――
 変わるべきは中井監督のほうだ。

 中井監督の教え子であるエースは、

 ――審判が正しい。

 といった。

 何を教えていたのか、といいたい。

 審判は常に正しいわけではない。

 審判も人間だ。ときにはミスをする。
 とりわけ、試合を左右しかねない大事な局面では、その確率は高まる。

 野球のような勝敗を決するスポーツは――
 審判のミスで敗れて怒りを露にするような者には、向かない。

 そういう者は、他のスポーツを志すがよい。
 実際、そうしている人は大勢いる。

 野球のようなスポーツを志すのなら、審判のミスは受け入れねばならない。
 それがルールである。

 ただし――
 審判が故意にミスをしたのなら、話は別だ。

 そのときは、審判を糾弾してよい。

 裏を返せば、審判を糾弾するためには、

 ――不正を働いた!

 と主張することが必要である。
 そうでなければ、筋が通らない。

 広陵の中井監督に、その覚悟はあるのか。

 報道された談話をみるかぎり――
 単に自分たちの悔しさを持て余しているようにしか感じられない。

 教育者としては失格である。