人は誰しも、自分が主役の物語を生きている。
人生という名の物語である。
この種の物語は――
この世に生きる人々の数だけ、まさに千差万別に描かれている。
自分の物語の中では、常に自分が主役でいられるが――
他人の物語の中では、自分は数多く描かれる脇役の中の一人にすぎない。
こうした構図があるために――
しばしば、堅実な処世訓の一つとして、
――無私の心
が叫ばれる。
自分を脇役の一人としてみる覚悟が、人の世を生き抜くための現実的な知恵なのである。
人の世は、この世に生きる人々によって、それぞれに描かれる物語が、互いに激しく衝突し合う場所でもあるのだから――
脇役として生きることを覚えると――
人生は楽しくなってくるものである。
逆に、主役として生きることばかりを考えていると――
人生は辛(つら)い苦行の連続となる。
自分が主役の物語は、誰とも共有することができないが――
自分が脇役の物語なら、誰かと共有することができないこともない。
それが、人生に楽しみを与える根源的な機序である。
例えば、我が子の人生において、自分も配偶者も所詮、脇役ではあるのだが――
自分が脇役として描かれる我が子の人生は、配偶者と共有し続けることが可能な物語である。
人は、ある程度、歳をとってきたなら――
主役として生きることよりも、脇役として生きることのほうが大切だ。
残りの人生を十分に楽しむためには――
主役よりも脇役に徹することである。