マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

電柱のシルエット

 現代の日本人なら誰しも――
 夕暮れ時に、電柱を見上げたことがあると思う。

 淡く陰った水色の空を背景に――
 黒色の電柱が、変圧器を要に、四方へ無数の電線を伸ばすシルエットは――
 お世辞にも洗練された図柄とはいえぬけれども――
 独特の美が感じられる。

 が、この美は普遍的なものではない。

 例えば――
 僕の母などは、電柱の類いが大嫌いである。

 新興住宅地などで、地中に電線が埋められていると、心が落ち着くらしい。

 母は戦後の混乱期を覚えている。

 戦火で荒れた街並が、まだ脳裏に焼き付いているようだ。
 電柱が四方へ無数の電線を伸ばす様子は、ただの無秩序にしかみえぬのかもしれない。

 僕は、戦後の混乱期を知らない。
 僕の少年期は、母の少女期に比べれば、社会的に格段に安定していた。
 そういう安定期を、僕は、あの電柱のシルエットの下で、過ごした。

 あのシルエットは、たしかに無秩序を象徴しうる。
 地中に電線が埋まっている新興住宅地のほうが、遥かに洗練された印象を受ける。

 が、あの無秩序に、僕が不安を抱くことはない。
 僕の中では、あの電柱のシルエットと社会の不安定性とは、根本的に分離されている。

 だから、あのシルエットを、まるで芸術作品のオブジェのように、鑑賞することができる。
 しかも、ふつうのオブジェと違い、芸術家の意識は関与していない。

 あのシルエットは、純粋に機能的な理由で、あのような形態を備えているのであって――
 決して、誰かに、みてもらうためではない――
 たぶん――

 そして、おそらく――
 あのシルエットは、100年先の日本には残っていない。

 100年先の日本人には、あのシルエットの美が理解できない。

 悲観することではない。

 そうやって失われていった街並の美は――
 これまでにも多々あった。

 そのリストの末尾に――
 電柱のシルエットが加わるだけである。