人間とは何かと訊かれたら、
――予測できぬもの
と答えるであろう。
目の前の人間が、明日に、どうなっているかは――
実は全くわからない。
どのように感じ、考え、動くのかは――
実に全くもって予測不可能である。
もちろん、予測できぬものは人間だけではない。
およそ自然物は、すべからく予測不可能である。
が――
人間の予測不可能性は、どんなに肝に銘じすぎても、損はない。
人間は、所詮、人間に囲まれて暮らしている。
数多ある自然物の予測不可能性の中で、最も手痛い目に遭う確率が高いのは、人間の予測不可能性である。
人間の予測不可能性の根源は、人間の精神である。
人間の身体は、それほど予測不可能というわけではない。
例えば――
身体が、明日、突然に空を飛べるようになったりすることはありえない――
精神なら、明日、突然に空へ飛んでいってしまうようなことはありえても――
ところが――
人間の精神は、身体(おそらくは脳)の作用ないし機能である。
この「作用ないし機能」というのが厄介だ。
人間の身体のどこを探しても、精神はみつからない。
洗濯機のどこを探しても、洗濯はみつけられない――それと同じである。
人間においては、みつけられぬものが、予測不可能性の根源になっている。
洗濯が、洗濯機の予測不可能性の根源になっているようなものである。
例えば、洗濯の出来不出来が毎回、違っていたり、あるいは、洗濯の具合次第で勝手に作動しなくなってしまう洗濯機があったとしたら、さぞかし困るであろう。
家事の計画など立てられない。
そういう洗濯機のようなものが、人間である。