――何のために本を読むのか。
という問いは、僕には、なかなかに厄介です。
子供の頃は、漠然と、
――知識を得るためだ。
と思っていました。
今は、そうは思えません。
もちろん、知識を得るために本を手に取ることは、しょっちゅうありますが――
本を読むということと本を手に取るということとは、少なくとも僕にとっては、まったくの別物です。
その証拠に――
ある本を読んでみて、その本に書かれていることが全て自分の知っていることであったとしても――
とくに不満に思うことはないのです。
むしろ、全てが自分の知らないことであったとしても、
(こんな本、読むんじゃなかった!)
と、憤ることのほうが多い。
(たくさんの知らないことを知ることができて、よかった!)
と思うことは、まず、ありません。
そんな僕は、本に何を求めているのでしょうか。
どうも、思考の様式のようなのです。
本の著者が、その本を執筆するにあたって採用した考え方ですね。
「考え方」というと、なんだか随分と長々しい手続きを指すように思われるかもしれませんが――
たしかに、そういうこともありますが――
でも、多くは、
――「一発勝負」的な様相
を呈しております。
例えば、『カネと政治』というタイトルの本があったとします。
この本、読む気になれますかね。
いちいち読まなくても、何となく書かれていることがわかりそうなタイトルではありませんか。
――たぶん、政治家の不正のこととかが書かれてるんだろうな。
と――
同じように、『カネと少女』でも、読む気になれない。
――たぶん、援助交際のこととかが書かれてるんだろうな。
と――
ところが、『政治と少女』では、どうでしょう?
――え? なに? その組み合わせ?
とは思いませんか。
少なくとも僕だったら、
(ちょっと読んでみようかな)
という気にさせられます。
この場合は、「政治」という概念と「少女」という概念とがくっつけられているところに、思考の様式の特異性があるのです。
相異なる2つの概念をくっつけるのかくっつけないかということは、まさに「一発勝負」的な様相をもっていますよね。
著者が本を執筆するときの考え方が、ときに「一発勝負」的になりうるというのは、そういうことです。
ですので――
例えば、『政治と少女』という本が本当にあったとして――
それを読んで、何も新しい知識が得られなかったとしても――
たぶん、僕は満足をするのだと思います。
僕にとって、本というのは、そういう欲求を満たしてくれるアイテムです。