マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

科学技術は人間を変えるか

 科学技術は人間を変えるか、という話をしたのですね。

 いえ――
 特に改まって話し合ったということではなく――
 ただの雑談です。

 人間の心身は、高度な科学技術に囲まれたくらいでは、そんなには変わらないと思うのですよ。

 もちろん、生活の様式は変わってくると思いますが――
 生活の様式が変わったとしても、心身の根本的なところは、何も変わらない――

 例えば、携帯電話や電子メールの発達で、他者とのコミュニケーションが安易になりましたが、最近の人間が以前の人間と比べて、社交術で劣っているとは、ちょっと思えないのですね。
 時々、とても心の温まるメールを送る人の話などを耳にします。

 あるいは、自家用車の普及や交通機関の発展で、移動に自分の生の足を使う割合は極端に減少しましたが、最近の人間が以前の人間と比べて、脚力で劣っているとは、ちょっと思えないのですね。
 マラソン競歩の記録は毎年、更新されています。

 ――そんなのは一部の例外に過ぎない。総体的には劣っているのだ。

 という主張は、もちろん、可能ですが――
 たとえ、総体的には本当に劣っていたとしても、そのことを科学的手法で証明することは、かなり困難ですから、気にしてもしょうがないのではないか、と――

 科学技術は、人間の心身の能力を補完するために進展するのだと考えております。
 心身の既存の能力で可能なことを代行させるために、何か新しい科学技術を導入する意味はありません。

 例えば、空港などに設置されている「動く廊下」などをみていると、よくわかります。
 大きな荷物を抱えている人は、「動く廊下」に立って、じっと目的地に到着するのを待っていますが、身軽な装いの人は、わざわざ「動く廊下」を避け、脇にある普通の廊下を歩くか、「動く廊下」の上を更に歩くかしています。
 理由は簡単で、大きな荷物を抱えて歩くことは、体の既存の能力をこえていますが、身軽な装いで歩くことは、体の既存の能力をこえてはいないのです。
 つまり、「動く廊下」は、身軽な装いの人にとっては不要な科学技術ということですね。

 もし、人間の生活圏の至る所に「動く廊下」や「動く歩道」ができ、歩くよりも立っているほうが楽だと感じる人間が多数派を占めるようになる日がくれば、そのときは、科学技術が人間を変えたといっても過言ではないでしょう。
 でも、そんな日がきますかね。

「動く廊下」よりは、よほど人間の役に立っていると思われる「動く階段 = エスカレータ」でさえ――
 至る所にあるわけではないのに――