マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

悪事を極めようとする自分の姿を

 ゲームなどの仮想世界と、僕らが暮らす現実世界とは――
 もちろん、まったくの別物なのですが――

 それら世界と自分との関わり方をみたときに――
 はたして、

 ――まったくの別物

 で済ませられるかどうかというのは――
 かなり大きな問題だと思っています。

 例えば――
 人をバッタバッタと斬り倒すゲームや大掛かりな窃盗をやってのけるゲームは、実際に人をバッタバッタと斬り倒すことや大がかりな窃盗をやってのけることとは完全に区別できますが――
 それは、あくまで行動の次元での区別であり――
 思念の次元での区別は、はなはだ心許ないものです。

 多くの人間が、実際に人をバッタバッタと斬り倒したり大がかりな窃盗をやってのけたりしようとしないのは――
 そうすることで取り返しのつかい事態に陥りうるからです。

 そんなことをすれば、周囲の人々が深刻な迷惑を被りますし――
 多くの場合には、そんなことをすれば、自分が社会的な派滅に追い込まれます。

 が、ゲームの上でなら――
 人間は、そういうことを平気でやったりしますよね。

 なぜゲームの上でならいいのかといえば――
 そういうことをしても、別に取り返しのつかない事態に陥ることがないからです。

 そういう意味でのリスクがないから――
 仮想世界で人をバッタバッタと斬り倒そうとしたり、大がかりな窃盗をやってのけようとしたりする――

 が――
 そうしたことに心が惹かれているという点では、仮想世界も現実世界も大した違いはないでしょう。

 いえ――
 正しくは、違いがあるということを証明することが難しいのです。

 もちろん――
 例えば、

 ――ヒトには、種に固有の根源的な性質の一つとして、そのような攻撃性が備わっている。

 といってしまえば――
 以後の論議で、さしたる矛盾は生じません。

 とはいえ――

     *

 僕個人としては――
 人をバッタバッタと斬り倒すことや大がかりな窃盗をやってのけることに、さして興味はありません。

 が、別の類いの悪事には相当に興味があるものですから――(笑
 仮想世界と現実世界との区別が、思念の次元では原理的に困難であるということを、見過ごすわけにはいきません。

 はっきりいえば――
 僕は、取り返しのつかない事態に陥ることさえ回避できるのであれば、自分の興味の赴くままに、自分の悪事を極めようとするでしょう。
 おそらくは――

 そのときに、仮想世界か現実世界かの差異は、もはや大した意味をもちえないと感じます。
 だって、今は現実世界においても取り返しのつかない事態に陥らないことが保証されているのですから――

 最後は自分の問題だと思うのですよね。

 仮想世界であろうと現実世界であろうと、最後は――
 悪事を極めようとする自分の姿を受け入れるのか受け入れないのか、でしょう。

 たぶん、僕は受け入れるでしょうね。
 でも、それは決して快いことではありません。