学問とその成果の社会応用とを混同する人たちが、少なくありません。
――世の中の役に立たぬ学問など、クズだ。
などと主張せんばかりの人たちです。
なぜ、そんなことがいえるのか、僕は理解に苦しみます。
そうした主張は学問の基本的な性質を無視しているように、僕には思えます。
どこが「基本的な」なのか――
学問とは、何らかの学問的成果を追い求める営みです。
その営みは、学問的成果の中身がキチっと定まるまで、続けられます。
そうやって得られた学問的成果が社会応用に適しているかどうかは――
当たり前のことですが――
その中身がキチっと定まるまでは、わかりません。
それをキチっと定めるために――
学者は学問を実践しているのです。
したがって――
「世の中の役に立たぬ学問は、クズだ」という主張は、
――学問的成果の中身が、あらかじめ十分に予想できない限り、学問を実践する価値はない。
ということになってしまいます。
が――
「あらかじめ中身が十分に予想できる学問的成果」など、「成果」といえましょうか。
そのような思惑で学問に携わっていたのでは、学問の進歩に、いささかも貢献することはないでしょう。
何事もそうでしょうが――
成功するかどうかは、一義的ではありません。
努力できるかどうかが、一義的なのです。
努力さえできれば、その努力の仕方をよほど大きく間違えない限り、成功はついてきます。
とりわけ学問という営みは、そのような様相が強いのです。
努力の量や質が成功を約束するようなところがあります。
そこが学問の甘さでもあります。
しばしば、
――学者は一度やったらやめられない。
などと揶揄されるのは――
そうした「甘さ」に言及したものでしょう。
が――
それと引き換えであるかのように――
学問には厳しさがあります。
――虚無
という名の厳しさです。
多くの場合、
――富や名声とは縁遠い。
という意味での「虚無」です。
富を手にする学者は皆無といってよいでしょう。
名声に浴する学者は希少といってよいでしょう。
富や名声と一線を画せるような強靭な精神の持ち主でない限り、学問の世界の虚無には耐えられません。
学問的成果の社会応用という果実に、ついフラフラと引き寄せられるような人は、
――生まれつき学者には向いていない。
といってよいでしょう。