マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

いわゆる足利事件で

 いわゆる足利事件で犯人とされた男性が――
 服役していた刑務所から、今日、釈放されました。

 各種報道機関が伝えているところです。

 有罪を確定させたのはDNA鑑定でした。

 事件が起こった1990年当時――
 DNA鑑定は、まだ犯罪捜査に応用され始めたばかりで、現在よりも精度が劣っていました。

 そこに疑問をもった弁護士が、最近になってDNA鑑定をやり直させたところ――
 犯人が現場に残したと考えられるDNAの型は受刑者のDNAの型と一致しているとはいえない――
 という結果が出たそうです。

 刑事裁判では、無実の人の受刑を絶対に防がねばなりません。
 それゆえに、

 ――疑わしきは罰せず。

 とされ、慎重に審理が行われます。

 当時もそうであったでしょう。

 どこに問題があったのか。

     *

 今回の釈放を受け、一部のマスコミが、

 ――科学への疑念が深まった。

 と報じていましたが――
 実に象徴的です。

 もちろん、その真意は「新奇の科学技術への疑念が深まった」ということであり――
 そのことに異論など、あろうはずもないのですが――
 ここで問題にしたいのは、言葉遣いです。

 科学(ないし科学史)を一度でも真面目に学んだことがあるならば――
 この文脈で「科学への疑念が深まった」とはいわないでしょう。

 なぜならば、

 ――そもそも科学は疑念だらけ――

 だからです。

「科学」と「科学技術」とでは、まったく違う――
 ということです。

 新たな発見が疑念を呼んで既成の知見が覆り――
 それによって、また新たな発見が疑念を呼ぶ――

 疑念とは、科学にとっては歓迎すべき要素です。
 科学を推進させる動力源です。

 まさに、

 ――疑念礼賛

 が、科学の精神です。

 こうした科学の側面を見過ごすことは――
 ときに社会の害になりえます。

 今回のDNA鑑定は、まさにその一例です。

 DNA鑑定は科学ではありません。
 科学技術です。

 科学という学術の営みによって得られた知見を基に、社会への実利還元を目指して開発された新奇の技術です。

 ところが――
 科学は、そもそも疑念の世界です。

 疑念が疑念を呼んで――
 まさに疑念礼賛の世界です。

 もちろん、科学の疑念にも色々あって一口で言い表すことはできませんが――
 どの疑念にも、根底には、

 ――不確かさ

 があるといってよいでしょう。

 科学は、つねに不確か――
 つまり、危ういのです。

 が――
 その危うさを欠いては進展しないのが科学です。

 科学が進展しなければ、科学技術も発展しません。
 僕たちの社会は、未来永劫、このままの状態にとどまるか、今よりも不便で貧困になります。

 それが嫌ならば――
 今の科学の在り方を――疑念礼賛の科学を――僕らは受け入れるしかありません。

 見直すべきは、科学技術の在り方――もしくは、社会による科学技術の受け入れ方――でしょう。

 科学技術というものは、それを社会で受け入れるときには、極度に慎重になるべきなのです。
 どんなに慎重になっても、慎重になりすぎることはない――

 なぜならば、新奇の科学技術は、つねに「疑念だらけの科学」によって、もたらされているからです。

 今回の件でいえば――
 当時の社会は、DNA鑑定という新奇の科学技術を、少し無批判に受け入れすぎました。

 もっと社会全体で勉強をし、理解を深め、多少なりとも批判的に検討するべきでした。

 少なくとも――
「遺伝子はDNAである」という知見を受け入れるように、受け入れるべきではありませんでした。

 が――
 その労を惜しみました。

 かくいう僕も、そうでした。

 当時、高校生であった僕は――
 DNA鑑定の技術的限界や、その背景にあった科学の精神を、深く学ぼうと思えば学べたはずでした。

 が、その労を惜しんだ――

 したがって――
 社会の構成員の一人としては――
「科学への疑念が深まった」というのではなく「社会への疑念が深まった」――あるいは、「自分自身への疑念が深まった」――というのが――
 いくらか誠実なコメントなのです。