同じ物語であっても――
それをどの視点で語るかによって、趣(おもむき)は変わってくるものです。
例えば、ある夫婦の物語を語るときに――
それを、夫の視点で語るか、妻の視点で語るかで――
まったく違った物語に感じられるのですね。
夫や妻の視点で語るというのは――
簡単にいえば、夫や妻の一人称で語るということです。
これらとは別に、もう一つの視点が考えられます。
語り手の視点です。
もちろん――
夫や妻の視点であっても、語り手が夫や妻になりきって語っているにすぎないわけですから――
すべては、元を質せば語り手の視点なのですが――
いわゆる「語り手の視点」というのは――
簡単にいえば、三人称で語るということです。
例えば、夫や妻などを介さない――
語り手が剥(む)き身のままで語るということになります。
夫や妻になりきって語る分には、いわば夫や妻に扮して芝居をすればよいのですが――
剥き身のままで語るときには、まずは、その夫婦の物語を語るのにふさわしい語り手の人物像というものを創造しなければなりません。
これが意外に大変なのです。
剥き身のままで語るのですから――
基本的には、現実の自分自身――例えば、現代日本に暮らす30代の男性――という属性を引きずります。
その属性が夫婦の物語の属性に合致しているのなら、とくに問題はありませんが――
合致していない場合は看過できません。
例えば――
現代日本の30代の夫婦の物語なら、合致しているでしょうが――
古代中国の王侯貴族の夫婦の物語なら、合致しているとはいいがたい――
そのときに――
語り手は、現実の自分自身が引きずっている属性――例えば、現代日本に暮らす30代の男性――を巧く変えるか消さないといけません。
それが難しいのです。