マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「誤り」という日本語を用いるときには

 この国では――
 未来に向けて提言をしたつもりが、いつのまにか過去を振り返って詰ったことにされている――
 ということが、しばしば起こりえます。

 こうした齟齬を生む要因は、

 ――過去の誤りから未来を考える。

 という思考が、この国のすべての人たちに浸透していないからでしょう。

 この思考が当たり前の人たちは――
 未来に向けて提言をするときに、つい過去の不首尾の根源を追求するという手法を採ってしまいがちです。

 そういう人たちにとっては、「過去を振り返って詰る」という発想など、思いもよらぬことですから――
 過去の不首尾を解明し、その結果を提示することこそが、そのまま提言になりうると考えてしまいます

 が――
 過去の誤りから未来を考えるという思考が当たり前でない人にとっては――
 過去の不首尾の解明というのは、単なる苦行に他なりません。

 それは、できれば、やりたくはないことなのです。

 よって――
 もし、その「苦行」を誰かが代行しようものならば、「いま自分は糾弾されている!」と思い込んでしまう――

 そして、強硬な抵抗を始めてしまう――

 残念なことです。

 理想をいえば――
 過去の誤りから未来を考えるという思考が、早く世間に行き渡るといいと思うのですが――
 それは、すぐには期待できません。

 日本語の枠組みが、それを妨げているからです。

 日本語の枠組みの中では、「過去の誤り」は主語と切り離されにくいのですね。
 日本語を用いる人々にとって、「誤り」とは、つねに「誰かの誤り」と感じられやすいのです。

「誤り」という日本語を用いるときには、よく注意をしなければなりません。