経済の議論をきいていて――
いつも、
(なんだかな~)
と、僕は思うのですが――
それは、
――結局、どの主張が正しいかは、議論しているだけでは決まらない。
ということを痛切に感じるからです。
例えば、
――東日本大震災の復興財源をどうするべきか?
という議論では――
「そもそも『復興財源』という概念それ自体がナンセンスである。被災者の自助努力に任せよ」といった極端な主張も含め、実に多種多様な主張が飛びかっているわけですが――
それら主張のどれが正しいかについては、それら主張のどれかに実際に依ってみることでしか、みえてこないはずです。
つまり――
あえて特定の主張に依った上で、具体的な対応策を決め、その策を実行に移していく過程で、経済の動向を観察していくことでしか、みえてこないのではないか、ということです。
復興財源に国税をあてようが国債をあてようが、そもそも復興財源それ自体を捻出しないと決めようが――
どれも具体的な対応策です。
そのどれをとっても、その後の経済の動向を観察することは可能ですから――
その対応策の根拠となる主張が正しかったどうかは、あとになれば必ずわかります。
問題なのは――
複数の主張について、正しかったかどうかを調べる手段はない、ということです。
復興財源を捻出しないという対応策と捻出するという対応策とを両立させることは原理的に不可能ですし――
復興財源に国税をあてるか国債をあてるかについては、一見、両立が可能なようですが――
もし、両立をさせれば、国税と国債とを同時にあてるという新たな対応策が生まれたことになりますので――
国税だけをあてるべきだという主張が正しかったのか、国債だけをあてるべきだという主張が正しかったのかは、未来永劫わからない――
ということになります。
要するに――
経済の議論においては、どの主張が正しいかは、何らかの具体策を実行に移してみるまでは知りえないはずであり――
よって、そうした議論には時間をかけるだけムダではないか――
という疑念につながります。
もし、どうしても時間をかけるのなら――
どの主張が正しいかを納得させるための議論ではなく――
どの主張が最も受け入れられやすいかとか、仮に誤っていたとしても多くの人が「しょうがない」と諦められるか、といったことを明らかにする議論が求められるでしょう。