――最近の若い人たちは学問の面白さを知ろうともしない。「とにかくやってみろ」といっても、全然やろうとしない。
そう嘆く年配者の声を、ときどき耳にします。
つい先頃まで「若い人たち」の一人であった40歳前の僕としましては、
(いやいや。そうじゃないだろう)
と苦笑いをしたくなります。
学問の面白さというものは――
言葉で説明して初めて、若い人たちの共感をえられます。
「とにかくやってみろ。そうすれば面白さがわかる」といった徒弟制度的あるいは権威主義的な発想では――
若い人たちの共感をえることは難しいでしょう。
なぜならば――
若い人たちは、その「とにかくやってみろ」の誘いに応じる気持ちに、どうしてもなれないから――
興味がもてないでいるのです。
いま――
僕は「学問」と、ひとくくりにしましたが――
本当は、ひとくくりにしてはいけません。
僕は、いわゆる抽象論としての「学問の面白さ」をいっているのではないのです。
そういった議論は、哲学者や思想家などに任せましょう。
僕のいいたいことは――
個々の学問分野の面白さです。
例えば、生物学という分野でいうならば――
――生物学の面白さは「なぜ生き物は、こんなにも多種多様な生体や機能をもっているのか?」といった問いの魅力に根源がある。
といった説明が必須だといっているのです
そうやって、どうにかして言葉で説明することによって初めて――
若い人たちの共感をえる可能性が生じます。
「共感をえる」ということは、「興味の糸口のありかを知ってもらう」ということです。
その「糸口」を実際に掴んでもらえるかどうかは、教育者の領分を越えています。
それは、あくまで教育を受ける若い人たち自身の問題です。
どんなに優れた教育者でも、無理に「糸口」を掴ませることはできないのですから――
ただし――
「糸口のありか」を示しもしないで、「糸口」を掴んでもらうというのは、無茶な願いです。
「とにかくやってみろ。そうすれば面白さがわかる」というのは――
地図も灯りもない暗闇の平原で、小さな宝箱を探させるようなものです。
物好きでもないかぎり、人は、そういう宝探しに精は出しません。