マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

生きることはツラくて苦しいが

 ――生きることはツラくて苦しいが、それは知識や理解が邪魔をするからだ。すべての知識や理解を忘れ、ただ生きることを純粋に体験しようと努めたら、生きることは楽しくて悦ばしい。

 そういう考え方が、あります。

 それは、たしかに、その通りなのですが、
(そんなふうに忘れる気にはなれないから、みんな、困ってるんだよ)
 と、いいたくなるのですね。

 人生にまつわる知識や理解を忘れたら、その一瞬は楽しくて悦ばしいかもしれません。

 が――
 その翌日は、どうなっているか――

 人生にまつわる知識や理解を忘れるということは――
 生まれたての赤ん坊に還るということです。

 であるならば――
 たとえば、現代社会において、生きるのがツラくなって苦しくなって、ある日、不意に道端で赤ん坊に還ったら、どうなるか――

 たぶん車に轢かれて死ぬでしょう。

 それで死ぬ人は、もしかしたら、本当に幸せかもしれませんが――
 周囲に残される人々は、いい迷惑です――まずは、その遺骸を丁重に葬らないといけない――

 生きることはツラくて苦しいが――
 けれど、そのツラさや苦しさを捨てようと思ったら――
 たぶん、あすの我が身が失われる――ひいては周囲に害をまきちらす――

 だから――
 人は、きょうのツラさや苦しさに向き合えるのです。

 生きることが楽しくて悦ばしいという体験は――
 そのどこかに嘘や幻が挿し込まれているでしょう。

 それら「嘘」や「幻」も含めて、その体験を希求する分には、よいのでしょうが……。
 そういう生き方が現に成立すると思い込むことは、少なくとも現代社会にとっては、かなりの迷惑でしょう。

 道端で赤ん坊に還られたら――
 やはり、困るのです。